ノンデュアリティからスピリチュアルを再構築する:チャネリング(その3)

その2からの続き

それ以降、何処かの神社に出掛ける時は、チャネリングで道を聞いていくことが普通になりました。

自分の車には現在もカーナビを付けていないのですが、九州など遠地の場合、飛行機で飛んでレンタカーを借りることになりますが、カーナビよりもガイドさんの道案内の方が正確で効率的であるというのも、何度も経験しています。

しかし、いつも教えてくれるとは限らず、ガイドさんが「看板!」と言うので、前方を見ると道路に道案内の看板があってそれに従えばいい時もあれば、「地図を見る」と一言だけ言って終わることもあります。

チャネリングで道を聞いて出掛けていると、土地勘が付かないという事によくなります。
例えば、クルマで出掛ける時に助手席に道に詳しい人が乗って、その人の案内で出掛けると、運転者は土地勘を身に付けられないで、道を進んでいくということになってしまいますが、そういう感じです。
なので、土地勘が必要な場合は、チャネリングにならず、地図を見て行くという意味なのかと思います。

その後、ノンデュアリティに進んでいくと、この世界はただ一つであり、全ては私であるということになり、

> チャネリングというのは、人が上位存在との間で
> コミュニケーション・チャンネルを確立し、その
> チャンネルを通じて、人が知りえない情報を得る
> ということです。

という、チャネリングの定義との矛盾に悩むようになります。
これは、2013年ごろから始まって、2016年までの3年に渡って悩んで来ました。ここに来てようやく、その矛盾が解けてきたところです。

物質的世界とスピリチュアル世界においては、分離体験をするので、チャネリングというのは、体験としては何の矛盾もありません。

一方で、ノンデュアリティに進むと、この世界は一つですから、チャネリングという分離体験とは矛盾が生じることになります。

しかし、長い時間を経て、そこには矛盾は生じないことに気が付きました。

ノンデュアリティは、全ては一つであるという事が原点になり、私たちという存在は、源泉に映し出された映像であるということです。つまり、「全ては一つ」の中に「分離」が存在することになり、両者は矛盾なく共存するわけです。

全ては一つであるという存在が、個人という体験をしているのです。

悟った人が、そうでない人に教えを説くというのは、全ては一つだけを見ていると矛盾しているように見えますが、全ては一つの中に個人という体験があるのなら、そこには矛盾はありません。

人は、肉体だけではなく、魂・ハイヤーセルフ・本体などと呼ばれる意識体を持っています。神やガイドは、肉体が無くこの意識体だけの存在です。
人と人が対話をするのは肉体が行っているのではなく、意識体が対話を行っており、肉体はその対話を物質レベルに表現しているにすぎません。そうであれば、肉体も持たない存在である神やガイドとの対話つまり、意識体との直接的な対話としてのチャネリングも人と人の対話とまったく同じことになります。