私が生まれてきた理由

スピリチュアル

スピリチュアルでは、生まれてきた理由を「学び」や「成長」として話をする人が多いです。確かに、学ぶこと・成長することは大切です。

しかし、スピリチュアルカウンセラーとして、色々な人の人生を観ていると、学びという一言で済ますことのできない大変な体験をしている人や、人として成長しているとは思えない懲りない親戚の人達の話を伺うことも良くあります。

そういった経験から見ると、生まれてきた理由が学ぶこと・成長することではない、としか言えない人生も世の中には沢山存在しているということを知ることになります。

スピリチュアルリーダーと呼ばれるような人は、だからこそ、学ぶこと・成長することが大事であると言うのですが、その答えにはどこか物足りないものがありました。

私たちが生まれてきた理由を観る時、人間をその源まで範囲を広げてみると、学ぶこと・成長することは大切ですが、究極の理由ではないことが判ってきます。

神が私たち人間を創造したのではありません。
全知である「空」(あるいは源泉、大いなる存在、意識などとも呼ばれる)が、肉体を持たない生命エネルギーとして全能である「神」を創造し、その神が肉体を持って地上に現れたのが「人」です。
すなわち、人間を源にまで戻ると、そもそもは全知全能という存在であったわけです。

cause

全知全能である存在は、全知全能であるがゆえに、学ぶとか成長することが不可能です。学び・成長の為には、「無知・無能」から始まる必要があります。

全知全能ではできない新たな体験をするために、全知全能の空と神が人間を創造しました。

人間は肉体を持った「無知・無能」という赤ん坊で生まれます。
無知・無能だからこそ、そこから学び・成長するということを体験することができます。また、その逆に、学ばない・成長しないということも、体験することができます。

こうしてみると、私たちが人間であるということは、学び・成長を通じて「多様な体験をすること」が本当の理由であるということが判ってきます。(これをインドでは神のリーラと呼ぶこともあります。)

多様な体験というのは、活動的な事も停滞しているようなことも、どちらも体験として価値があるということです。ポジティブな体験もネガティブな体験も、どちらも体験として価値があるということです。

人生で体験することには、全てに等しく価値があります。
その価値を生み出しているのが、「多様な体験」であるということです。

幸運であることと、不運であることを比べると、幸運であることを願う人の方が多いのですが、幸運と不運はコインの裏表のようなもので、幸運があるから不運があり、不運があるから幸運があるのであり、どちらか一方のみで存在するわけではありません。
幸運に価値があるとしたら、幸運が存在する理由である不運にも等しく価値があります。

無駄な人生経験など、どこにもないのです。
今は、まだ感じられなくても、あの過去があったから、今の自分がある。いつかきっとそれを感じられます。
人生経験には、すべて価値があります。

コメント

  1. akismile より:

    こんばんは。
    最近、私自身の汚れた醜い感情をありのまま認められる様になってきました。
    すると、他人のそれも受け入れられる様になり、
    いいものも悪いものの併せ持つのが人間なのだ、
    と他人に過度に期待することが減って、
    我慢することが減って随分楽になってきました。

    そうしてみると、私が恐れていたのは、
    他人ではなくて自分自身の中にある「他人に対する暴力的な感情」で、
    それをコントロール出来ない自分自身を恥じて自信を失い、
    罪悪感に苛まれ苦しんでいたのだな、と思いました。

    ポジティブなことばかり求めてしまうと、
    自分の内側にあるネガティブなものから目を背けてしまい、
    本当の解決にはならないのだな、と思います。

    ネガティブな体験を否定していると、
    ネガティブな自分を受け入れる時に抵抗を感じ、
    強い精神力が必要になりますが、
    八雲さんが仰っている様に

    『ポジティブな体験もネガティブな体験も、どちらも体験として価値があるということです。』

    と心から納得すれば、
    抵抗なく自分自身のネガティブさを受け入れることが出来て、
    バランスが整って、心地よい自分で居られる様になるな、と思いました。

  2. オリバナム より:

    こんばんは。
    近年私が思っていたことと同じだったので、ついコメントします。

    苦しい体験や辛い思いをしたときに、辛いは辛いけど一歩引いて
    「でもこういうのがこの世の醍醐味だしね」
    と思うと少し楽になります。
    味わうというか観察するというか・・そういうことでしょうか。
    同じように、浮かれるような良いことがあっても
    ああこれも醍醐味・・と思うと、陶酔せずに我に返ります。

    でも、この感覚は諦めに似ているなとも感じていて、
    これではたしていいのかな、と思うこともあります。
    いつも冷めていて俯瞰している自分がいる気がします。

    達観(という言葉で合っているか自信がないですが)と、
    諦めって似ているものでしょうかね?

  3. 八雲 より:

    > akismile さん

    自分が持っている感情というのは、本来意味づけなく存在します。
    それをエゴが意味づけするから、綺麗とか醜いという判断が起きます。

    存在する感情は、存在するという価値があります。
    存在という価値だけを観ていると、価値をどう活かすかという思考になります。

    「他人に対する暴力的な感情」は判断ですが、それを「他人に対するエネルギッシュな想い」という価値として捉え直すと、それを活かすことが可能になります。

    それは、ポジティブとかネガティブを超える思考です。

  4. 八雲 より:

    > オリバナム さん

    達観と諦めは、一見すると外見的には似ているが、立ち位置が異なります。

    達観は、起きることは全てニュートラルであるという立ち位置で見ています。
    そして起きることを観照して楽しんでいます。

    諦めは、自分の価値観の中で良い・悪いを握りしめるという、心の渦の中にいます。
    握りしめていたいけど、しょうがないから手放すという立ち位置で見ています。
    達観とは異なり、そこには不満が残ります。

    ※デジタル大辞泉から引用:
    観照(かん‐しょう)
    1 主観をまじえないで物事を冷静に観察して、意味を明らかに知ること。
    2 美学で、対象の美を直接的に感じ取ること。美の直観。

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