悟る時、私はいない

関東三十六不動を巡拝していた時のことです。第三十三番の高塚不動尊の階段を上り、赤い不動堂の前で、参拝していると、突然それはやってきました。

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その時に、口をついて出た言葉は ・・・ 「世界が悟った」

私という概念は消失していました。肉体的に見れば私という個人は存在しているにもかかわらず、そこに私はいないのです。
だから、「私が悟った」という言葉には、どうしてもたどり着けません。何度思い直しても、「世界が悟った」ということしか、言えなくなります。

悟る瞬間というのは、自我が消失しているため、私と言う存在は無くなってしまいます。
だから、「私」が悟るわけではない。全て(ワンネス)が悟るのです。

論理的に言うなら、明らかに矛盾しています。しかし、それは分離の世界の論理であって、全体性というワンネスの世界では、まったく矛盾しません。

誰か、「私は悟った」と声高に言う人がいたとすれば、それは分離の世界における気づきがあったということです。全体性(ワンネス)に、真に悟る瞬間には、「私」は存在しません。

そして、私が無くなったら、どうなるのかというと、悟る前と悟った後で、景色も変化しなければ、行うことも変わりません。しかし、この世界を分離した個人の視点から見ていたのが、全体性から見るという意識の転換が起きます。この意識の転換が起きると、生きることの不安が無くなって行き、自由な感覚が呼び起されてきます。そして、この全体性から見るという意識の方が、分離の意識にくらべて、はるかに自然であることが理解できるようになります。

ところが、この悟った感覚というのは、一度の悟りでそのまま永続するとは限りません。ほとんどの人において、「悟った感覚」と「分離の感覚」の両方の間を行き来するようになります。悟る以前においては、「分離の感覚」が人生のほとんどを占めているのに対して、悟りを経験すると、「全体性(ワンネス)」というこれまでなかった視点に立つことが出来るようになります。

そして大切なのは、「分離の感覚」を手放していくことです。これを行うのには時間が掛りますが、手放していくことが出来るというのは、全ての人に保証されています。