般若心経は唱えるものではなく、理解するものである

般若心経については、唱えると功徳があるということが良く言われていますが、その点については、ちょっと疑問があります。

というのも、関東だけでなく、西国の不動霊場・観音霊場も巡った経験から言うと、各地の霊場において、般若心経をただ唱えているだけの人を多く見かけるのですが、それらの人達が、般若心経の本来の目的である、この世界の成り立ちを理解することで、得られる功徳を受けているとは思えないことが多いからです。

般若心経は、そもそもサンスクリット語で書かれているのですが、それが中国に伝わった時に、漢語に翻訳されています。それが日本に伝わった時には、漢語の読みである「音」が伝わっていて、現在ではその「音」を唱えているわけですが、そもそもサンスクリット語においては、この宇宙の在り様を説明していた文章であったのが、日本に伝わった時には、ただの「音」として伝わっています。そのため、「音」では、般若心経が何を伝えようとしているのか、よくわからないものになっています。

その「音」を内容を理解することなく、ただ読み上げたところで、読み上げる本人が、般若心経がそもそもの目的とする、この宇宙の在り様を理解することで、般若心経の功徳を受け取ることができるとは思えません。

本来のサンスクリットから、中国語に翻訳され、日本においては、ただの「音」でしかない言葉を読み上げるというのは、例えるなら、英語で書かれた本を、中国語に翻訳して、その中国語の読みである「音」を読んでいるようなものです、その「音」で、本来の英語で書かれている意味を正確に理解できるでしょうか?