私ではない私

昨日(19日)は、朝からずっと、「何処かに車で行く」という感覚が強く、しかしどこに何しに行くのかもわからないので、しばらくそのままにしていたのですが、やはり感覚は相変わらず強いままなので、14時を廻ってから出かけることに・・・

どの道を行くのか、交差点はどちらに曲がるのかは、思考レベルではなく、無意識レベルが決定していくので、どこに行くのかは全く判らないままで走って行きます。かつては、ガイドさんが道を教えてくれるというスタイルでしたが、最近は自分の深い所から行くべき道、曲がるべき場所が湧いてくる状態です。

関越道→藤岡JCT→上信越道と進んで、松井田妙義ICで突然Uターンして、来た道を戻って行くので、何処に行くでもなく、ただ高速道路を走って返って行くのには、ちょっとびっくり。

日も暮れた関越道を走っていると、私という感覚が薄れて、道路と、自分の車と、他の車が一つに溶け込んでいく感覚がやってきます。そして、そこに「私ではない私」がありました。

「私ではない私」とは、個人としての私は消えて、全てである感覚です。しかしそれを適切に表すことが出来る言葉がないので、個人としての私ではない、全体性の存在として、「私ではない私」と表現しています。

その時は、思考も自我もない(つまり個人としての私が存在しない)状態で車を運転しているのですが、何の問題も無く車の運転が起きていることに気が付きます。それは源泉がそのまま私の姿と車と周囲の環境として現れてきている状態です。

車を止めて、降りるとその感覚は、多少薄らぐものの、完全に消えているわけではありません。
人と話していると、その時は自我や思考としての私である個人の私が戻って来るので、「私ではない私」が完全に定着しているわけではないですが、一人でいると、また「私ではない私」が戻ってきます。

なので、この記事は自我や思考で書いているのではなく、書くという流れが自然に起きています。

覚醒や目覚めは、目指せば目指すほど遠くに飛び去ってしまうもので、それを忘れた頃に、前触れもなく突然やって来るものです。昨日の私も、それを忘れて、ただ車を走らせた時に、それは起きました。

コメント

  1. LOLL より:

    「自分の深い所から行くべき道、曲がるべき場所が湧いてくる状態」
    まさに、昨年から実感している状態です。スピリット・ガイドからのメッセージはなくなり、仕事も旅も湧いてくる情報に従っています。今年は、それを標べに2回ほど旅をしました。来月も参ります。日常生活の中で、ふと現実の諸条件により、思考過多になりそうな時もまだありますが、自分の奥深くからのメッセージに従うことを積み重ねることにより、個が存在しない状態でいる時間(「状態」も「時間」も適切ではない表現ですが、便宜上。。。)が多くなっていると感じています。

  2. yakumo より:

    > LOLL さん

    分離の状態であれば、言葉で表しやすいのですが、個が存在しないということが深まってくると、言葉で表現するということを超えた世界になってくるので、言葉は「それ」を表しているのではなく、指し示しているに過ぎないものになってきます。