神像・仏像は、社殿・仏殿にあるのが本来の姿 [8/30更新]

スピリチュアル

神像や仏像が重要文化財に指定されると、社殿や仏殿から出されてガラス張りのケースなどに入れて保存されることがあります。

収蔵施設や展示施設のガラスケースの中に置かれると、きれいに保存されていても、神像・仏像としてのエネルギーを失ってしまいます。

京都や奈良などで、そうしたお像を見ることがありますが、そこにあるのは神像・仏像ではなく、単なる美術品でしかありません。

これは、神像・仏像の製作者の意図に反することです。

神像・仏像は、人々が拝するために、社殿や仏殿に祀られてきたものです。拝されることで活きているものです。

人々に拝され、祈りを受けることが、神像・仏像本来の姿であり、長年拝されていれば、表面に傷がついたり、手が折れたり、一部が欠けたりすることもあります。

しかし、それによって神像・仏像の価値が失われるわけではありません。

以下は、「蓮華の国ぐに アジアの聖たち」 野口法蔵著から引用

次の日、現在でも女人が入ることのできない、円通律寺へ参拝。比叡山の安楽律院と同様に、今はなき先達律師の画像が残る。その後、勧められるままに、秘宝館を見学する。国宝の仏像がずらりと陳列され、美術館のようである。ひと回りする頃、そこに老いた遍路姿の一群がやってきた。皆、手に袋を持っている。横一列になり、仏像の足下に拝したのち、袋から米粒をとりだし、仏像に向かって撒きはじめた。係官が出て止めるが、何のその、仏像に向かって、「バラリ、バラリ」。重要文化財ゆえ、云々という立札も何のその、「バラリ、バラリ」。こっちで停めれば、あっちで撒く。私も一緒に「バラリ、バラリ」。仏像は信仰のためにある。手が一つ欠けたとして、拝み続けられれば、それは仏である。飾られ木塊と化しては意味がない。

これは、神社にも言えることですが、たとえ小さい神社であっても、地元の人に大切にされている神社は、神とちゃんとつながっており、いい感じになります。

一方で、どれほどお金をかけた大きな神社でも、多くの人に拝されてない(愛されていない)神社というのは、行ってみても良い感じにはなりません。

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