神像・仏像

スピリチュアル

神像・仏像において、重要文化財となると、社殿・御堂から、ガラス張りの文化財収容の場所に移されてしまうことがありますが、これは本来の神像・仏像のあり方とは反するものです。
神像・仏像は、拝されてこそ価値があります。ガラス張りのケースに入れられては、本来の働きすらできなくなり、そもそもの価値を失ってしまいます。

神像・仏像は、その像が活きていることが大切で、活きている神像・仏像は、社殿や仏殿のなかにあり、秘仏も含めて多くの人に拝されることが大切です。
神像や仏像が長年拝された結果として、表面に傷がついたり、お像の手がなくなったりしたところで、神像・仏像の本来の価値が失われるわけではありません。

むしろ、エアコンの効いたコンクリート製の収蔵施設におかれることの方が、神像・仏像の価値が失われることになります。

実際、京都・奈良などの重要文化財が多い土地において、そういったお像を見ることがありますが、本来の社殿・仏殿にない像は、本来のエネルギーを失って、単なるモノになっていることが多いです。これでは、製作者の意図とも思いとも離れてしまった状態になってしまいます。

拝礼されることで、表面に傷がつこうと、手が折れようとも、神像・仏像というのは、多くの人によって拝されてこそ意味があります。

以下は、「蓮華の国ぐに アジアの聖たち」 野口法蔵著から引用
次の日、現在でも女人が入ることのできない、円通律寺へ参拝。比叡山の安楽律院と同様に、今はなき先達律師の画像が残る。その後、勧められるままに、秘宝館を見学する。国宝の仏像がずらりと陳列され、美術館のようである。ひと回りする頃、そこに老いた遍路姿の一群がやってきた。皆、手に袋を持っている。横一列になり、仏像の足下に拝したのち、袋から米粒をとりだし、仏像に向かって撒きはじめた。係官が出て止めるが、何のその、仏像に向かって、「バラリ、バラリ」。重要文化財ゆえ、云々という立札も何のその、「バラリ、バラリ」。こっちで停めれば、あっちで撒く。私も一緒に「バラリ、バラリ」。仏像は信仰のためにある。手が一つ欠けたとして、拝み続けられれば、それは仏である。飾られ木塊と化しては意味がない。

これは、神社にも言えることですが、たとえ小さい神社であっても、地元の人に大切にされている神社は、神とちゃんとつながっており、いい感じになります。
一方で、どれほどお金をかけた大きな神社でも、多くの人に拝されてない(愛されていない)神社というのは、行ってみても良い感じにはなりません。

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