最近お寺を巡ることが多いのはなぜ?

スピリチュアル◆悟り・ノンデュアリティ

かつては、日本全国の神社を巡っていたのですが、最近はお寺を巡ることが多くなっています。
スピリチュアルなことに目覚めていくプロセスにおいて、神社なのかお寺なのか、あるいは教会や大自然なのかは、人それぞれですが、私の場合は、過去生繋がりもあって、神社をずいぶん巡ってきました。神社を巡ることで、霊性をかなりのところまで持ち上げることが出来るので、これまでは神社が主体でしたが、ワンネスということが自分にとってメインのテーマになってくると、神社ではその先に進むことが難しいと感じるようになって、神社には殆ど行かない時期がしばらく続きました。

神社神道においては、古事記や日本書紀が原典となるのですが、そこで語られている物語は、人と神の関係性であり、いわば分離のスピリチュアルであるということです。古神道などにおいては、ワンネスの概念を語っているものもあるのですが、あまり自分にはピンとこないところがありました。

そして、2014年7月は、何か修行をしなければならないという意識があって、6月後半になって、7月はお休みを頂くことにしたのですが、最初は、自分の過去生も含めたこれまでの歴史を振り返るかのように、古戦場や石上神宮などを巡っていたのですが、それが終わると、一転して、秩父三十四観音霊場を巡り、そして関東三十六不動霊場を巡ることになってしまいました。ここで、しまいましたと書いたのは、これまでの一連の流れは分離的存在としての自分の意思で決めたことではなく、とりあえず「師匠」と呼んでいましたが、肉体を持たない存在であるスピリチュアルガイドの意図に従って動いてきています。

始めてみて分かったのですが、不動明王は大日如来の化身であり、大日如来は宇宙そのものであるので、不動霊場を巡るというのは、宇宙そのものである「空」と一つになることであり、自分自身がワンネスになるという悟りの道でもあるということです。

しかも、仏教では、般若心経という「空」を論理的に説明しているものがあり、実践においては、それらの過去から引き継いだ大きな資産を使うことが出来るため、迷いなく実践を行うことができるということです。

しかし、これは仏教を実践しているのではありません。
スピリチュアルな原点というのは、宗教を超えたものです。

ブッダもイエスもスピリチュアルな原点を実践し語り伝えるということを行いました。そのときブッダやイエスは実践するためのコミュニティ(共同体)を作ったのであり、宗教という形はとっていませんでした。そのコミュニティが宗教化していくのは、彼らが滅してから後のことです。

なので、お寺を巡っているからといって、仏教に傾倒しているわけではなく、神道にも仏教にもキリスト教やその他の教えにも存在している、スピリチュアルの原点を実践しているということです。

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