(0)はじめに
はじめにお断りしておきますが、この記事で使っている図は、あくまでも「思考」と「感情」と「大いなる存在」との関係性を理解するためのものです。
「大いなる存在」は、本来あなたの内側に存在しています。ただ、そのように図で書くと、関係性がわかりにくくなってしまうため、あえて「大いなる存在」を外部的に表現しています。
(1)大部分の人達の現状
現代において、大部分の人は、「思考」と「感情」に捕らわれた生き方をしています。捕らわれた生き方なので、「思考」と「感情」をコントロールできません。
そのために、本来の自分というものが、「思考」と「感情」に埋没してしまっています。
これは、現代人の精神的な病と言ってもいいくらいのことで、「思考」と「感情」こそが自分自身そのものであるという勘違いのなかで生きています。
思考すること、感情を感じることが、自分自身のアイデンティティだと思い込んでいるので、頭の中は、常に思考が渦巻いており、それにともなう感情がいつもあります。
そして、思考というのは、過去と未来をいつも見ています。しかし、過去と未来というのは、頭の中に存在する、記憶と想像でしかなく、どちらも思考が創りだした虚像でしかありません。それらの思考が創りだす価値観から、感情も生まれてきます。
つまり、思考と感情というのは、本当は存在しない、「過去」と「未来」が、あたかも存在しているかのように思っている世界、そこに生きているということです。
そのため、今ここという瞬間でつながることができる、大いなる存在(自分自身の本来の姿であり、神とか仏と呼ばれることもある)とのつながりが分断されてしまいます。
なので、ますます「思考」と「感情」に頼って生きることになって、思考や感情に捕らわれた生き方になります。
「思考」と「感情」が渦巻く世界には、心の平安はありません。
どれほど、平安がないのかは、日々のテレビのワイドショーやニュースを見てみれば良くわかります。ワイドショーやニュースが、人々の不安を糧にしているものであるということは、良く理解しておくことが必要です。
(2)悟った人の場合
悟った人の場合、常に「今、ここ」という瞬間に存在しているので、大いなる存在と常につながった状態になります。
その結果として、「思考」や「感情」を自分自身の支配下に置くことになるので、正確な判断をすることができ、「良いこと」や「悪いこと」と言うものの見方ではなく、中立的に物事を観ることができるので、心にはいつも平安・安心があります。
「思考」は、何かを組み立てるための「道具」であり、必要な時に思考し、必要がないときは、思考を止めて、大いなる存在からもたらされる知恵や判断を使っていきます。そのため、思考を超えたもっと上位レベルの知恵と判断を使うことができるようになります。
「感情」は何かを感じるために存在しますから、美しいものを見たり、悲しい出来事で感情が呼びさまされることはあっても、感情に振り回されることはありません。
「過去」や「未来」も、自分が創りだすものであることを理解していますから、それらに振り回されたり、捕らわれたりすることなく、創造していくことができます。なので、いわゆる願望実現についても、楽に実現することができるようになります。
大いなる存在とつながっていると、自分本来のエネルギーとつながることになるので、活発でしかも穏やかでもあるという、とても自分らしい生き方になります。
コメント
私は「過去」を背負って生きてきたタイプです。
「過去」 に 押しつぶされて身動きできない時が数年に一度あります。
「思考」と「感情」こそ自分である、自分の個性であると信じている部分もありました。
昔は「思考」と「感情」を表現しない人を、自分が無い、と評していた時期もありました。
それがこの一カ月位、「今」しか考えられない、考えようとしても考えられない状況が続いています。その状況は、場当たり的に生きているようで、計画性が無い生活のようで、漠然とした不安を感じています。 地に足が付いていなくて、不安定です。
今は、そのことさえも考えることが出来ない程、「今」 になっていますが、
悟っているとか大いなる存在とつながっている感じもありません[E:coldsweats01]
思考も感情も、楽しく生きる為の道具としてうまく使えばいいのですね。思考に対してはそう思っていましたが、感情は上手く扱えていませんでした。新しい発見です。
> 桜咲く春さん
過去と未来を行ったり来たりしながら、今という瞬間にいると、不安定で、大いなる存在とのつながりも感じられません。
ただ、今という瞬間に安定的に存在すると、感じられるようになります。
> akismileさん
思考も感情も、楽しく生きる為の道具です。
もっと、言うなら、身体もそうです。