人間関係において、相手を好きとか嫌いとか感じている時、
相手の「存在」が好きなのか、それとも「行為」が好きなのか、
どちらでしょうか?
相手の行為が好きな場合、あなたは、お相手が何をするのか、何をしてくれるのかが好きと嫌いを分けています。つまり、相手の存在そのものが好きなわけではなく、相手の行為が自分の好みに合っているかどうかが判断基準であるということです。
一方、相手の行為がどのようなものであれ、存在そのものが好きな場合、あなたは、お相手を本質的に好きであるということです。
相手の存在そのものが好きな場合、人間関係に問題は起きません。
しかし、相手の行為が好きな場合、行為というのは、それをどう評価するのかという問題になり、評価というのは評価する人自身の世界観や価値観に左右されます。
つまり、行為が好きな場合は、それをどう評価するのか、あるいはされるのかは、時々の価値観に左右されるため、自分自身の評価が揺れ動くことになり、そこに心の平和や安定は存在しないということになります。
心の平安というのは、相手の行為で規定されるのではなく、存在そのものを好きになるかどうかという、自分自身の心の在り方に寄るものです。
コメント
親から、いい子にしていなさい、いい成績をとりなさい、など、
常に条件付きで育てられた場合、
(親もそれ以外の認め方を知らなかったりしますが)
それは、無意識の観念として取り込まれていますから、
無意識の反応パターンとなっています。
自分の中のその観念に気づき、いかに書き換えをしていくか、
ということになるのでしょうか。
この記事の趣旨は、「行為」と「存在」です。
ですので、「無意識」や「観念」、あるいは「観念の書き換え」というのは、この記事の趣旨とは離れています。