自我と肉体の目的

私たちは、“不完全で、完全な存在”です。
不完全は“経験”であり、完全は“真実”です。

真実を経験するためには、ただそれを経験すればいいのですが、不完全は真実ではないので、経験できるようにするための仕組みが必要です。
その仕組みが、自我と肉体です。

自我というのは、“私”という分離された意識を持ちます、そこに肉体が存在することで、その分離された意識が固定化され、経験することができるようになります。

すなわち、“私”と相手、“私”と社会、“私”とそれ以外のものすべて、といった経験をすることになります。

この分離された“私”は完全ではない体験が目的ですから、不完全な体験、すなわち、
足りない・少ない・乏しい・及ばない・劣る・非力・満足できない・つまらない・面白くない
などといった多様な経験をします。
これらは、すべて“私”と私以外との比較が元になって発生します。

自我というのは、不完全を体験するための道具ですから、“私”が何者なのか、“私”は何をすべきか、“私”の人生のテーマは何か、などを突き詰めていくと、不完全な体験を深めていくことになり、ますます、生まれてきた理由である、不完全を経験する、を全うしてしまうことになります。

不完全を、単に経験として置いておくことができれば、いいのですが、多くの人たちは、この不完全さこそが“私自身”であるという思い込みに生きています。

それが、人と人、人と社会の問題を引き起こします。

物質的な経験をしている私たちは、物質の過不足を子供から大人になる過程で経験します。そのため、不完全であるという思い込みは、自分には不足・欠乏・欠落している部分が存在するという考えにたどり着き、その足りない部分を埋めることが完全になる道であるという誤った認識を持つようになります。
その足りない部分を、人からの承認で埋めようとしたり、地位や金銭で得ようとしたり、時には人から奪うという犯罪に発展することがあります。
そして、こういう人たちが形成している国家という組織も、同じように人から奪うということを行ってしまうことになります。
これは、とても根深いものであり、あまりに根深いため、大部分の人がそのことに気が付いていません。

私たちが住んでいる社会に、これほど問題が多いのは、この不完全であるという思い込みから発しています。そのことに気が付かないで、問題に対して、行動してみたり、やり方を変えてみるというのは、緩和することにはなるかもしれませんが、結果として違う形の問題を新たに作って行くという事が待っているだけになります。

社会をより良くするためには、不完全であるというものが、単なる経験であり、思い込みでしかないということに、深く気がつくことが必要です。
つまり、ひとりひとりが、自分自身が完全であるという真実に覚醒することが、社会の問題を根本的に解決する道なのです。

犯罪を犯す人は、犯罪が悪いことであるというのを知識では知っています。しかし深層心理的には、不完全であるという思い込みがあるため、それが行動となって出てきています。

なので、真実に覚醒するというのは、単に知識として知っているだけではなく、深層心理的な行動レベルにまで昇華することが必要です。

多くの人が自分という存在の完全さに深く気づいたとき、この社会は想像もできないくらい、今とは違った姿になっているでしょう。


この記事を書いた人について(1/28更新):

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コメント

  1. えいじ より:

    「自我というのは、不完全を体験するための道具ですから、“私”が何者なのか、“私”は何をすべきか、“私”の人生のテーマは何か、などを突き詰めていくと、不完全な体験を深めていくことになり、ますます、生まれてきた理由である、不完全を経験する、を全うしてしまうことになります。」
    非常に衝撃的な言葉で驚きました。正直、納得いかないところもありますが。
    人それぞに何かしら生まれもった役割があると考えていた自分にとっては、ますます心が混乱してしまいます。
    ただこのこだわりから抜け出すことが覚醒への一歩であるのなら、何も知らないことに比べて遥かに幸せです。
    「多くの人が自分という存在の完全さに深く気づいたとき、この社会は想像もできないくらい、今とは違った姿になっているでしょう。」
    イエスキリストの言葉である「与えよ、ならば与えられるであろう」を思い出しました。あともうひとつユダヤの最高の施しに「人に職を与えること」が定められていることも思い出しました。人に職を与えることはなにも企業経営者になることばかりではないと考えています。不完全であってもアドバイスや勇気づけてあげること、相手のことを慮ることはできます。
    2013/3/25のブログの「私達が、今ここに居る理由」を改めて読んで、不完全(完全)な自分が自分以外の人のために良いことをしてあげるのを想像しています。別に感謝してもらうためではありません。多くの人と統合的な意識を持てるようになるのを期待しています。

  2. 八雲 より:

    > えいじさん
    納得いかないと思います。
    なぜなら、肉体経験というのは、完全とは反対の経験をする為にあるので、真実を体験するためにあるわけではありません。
    ここでは、私と“私”を使い分けています。私というのは統合的な意識をもった状態で、“私”は分離的な意識を持った状態を表しています。
    分離的な意識では、「“私”が存在する理由」、「“私”の役割」という、本来の私からすれば、分離的な体験でしかないことを追求していきます。
    人がそれぞれ生きてきた理由は色々とありますが、それは分離的な体験世界での理由であって、本来の私の存在理由ではありません。
    本来の私は、ただ存在します。そこには、存在理由もなく、存在意義もなく、良い悪いもなく、滅することもなく生じることもない、「ただ在る」という世界です。
    これを、実感するには、分離的な“私”というこだわりを捨てることから始まります。

  3. Two Moon より:

    足りないと感じることを新たに何かで埋め合わせるために懸命になろうとすると、最近
    気力が失せてしまいます。今の自分にできる事の中に、今までの築き上げた土台
    を大切に伸ばしてみることも選択肢ではあります。しかもその方がイメージも湧きます。
    足りないと感じるものを埋め合わせしようとすると行き詰まった感覚になります。

  4. 八雲 より:

    > Two Moon さん
    不足感を土台にして生きている人が、この社会では過半数なのですが、覚醒しつつある人達からみれば、どうやったらそんな生き方が出来るのか不思議なくらいですね。
    完全であるという土台の上に、築いて行くことの方が、はるかに楽で創造的になります。

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