ここのところ、先祖供養の話を書いていますが、「本質的には、先祖供養はする必要がない」というのが答えになります。この「本質的」とはどういうことかを理解するには、先祖供養のルーツから話しておくことが必要になります。
われわれが、この生きている世界がどうなっているのかを理解しようとしたとき、自分自身が生きている世界を中心に考えるという傾向があります。
典型的な思想としては、天動説があります。自分たちが住んでいる場所こそが世界(宇宙)の中心であり、他の世界は周辺界であるという考え方です。これは、自分たちが住んでいる世界の知識・経験が最も多く、他の世界の知識・経験が乏しいことから起きるもので、天動説のみならず、世界観を語るときには良く見られます。
なので、生者の世界を「主」、死者の世界を「従」とする考え方が出てくるのは、(それが正しい世界観であるかどうかはともかく)、良くあることです。
先の記事で、生者と死者の水平移動ということを書いていますが、その後の仏教や神道などの世界観では、生者と死者の関係は水平関係ではなく、垂直の階層であることが語られます。
【参考文献】
●儒教とは何か (中公新書) 加地 伸行 (著)
出版社: 中央公論社 (1990/10) ISBN-10: 4121009894
儒教というものを、概観するためには、お勧めの本です。概観するための本なので、その中身ではなく、歴史的背景が詳しく書かれています。
(続きます)
コメント
私も先祖供養は不要だと思う。
形式をもって感謝をするのも不要だと思う。
子孫たる私が、十二分にこの世で自分の思う形、内容で人生を満喫することで、何らかの形で人間類にちょっとだけでも貢献できれば、それでいいと思う。そのちょっとだけとは、愛するパートナーかもしれないし、子供かもしれないし、もしかすると飼っている動物かもしれないけど。
もし憑依なる現象があれば、なおさらされている子孫が満喫できる人生で憑依している先祖も満足を覚えるくらいのものでないと、単に伝統霊性ビジネス、スピリチュアルビジネス、霊能者世界の汚濁に洗脳されているだけでしょう。
Sarasvatiさん
本来的には、そうだと思います。
ただ、これから書くことですが、現実問題として、供養をする必要があるケースも存在します。