ここで使う図は、分離感覚を持っている人に向けて、自我(エゴ)がどういう働きをしているのかを説明する為のものです。
一元性を充分理解している人から見れば、正確な表現ではないのですが、正確に表現しようとすると、分離感覚を持っている人には理解が困難な表現になるため、あえてこのような表現をしています。
これは、自転車の補助輪のようなもので、自転車に乗れるようになれば補助輪は不要になるように、一元性を理解するようになれば、この図を使う必要はなくなります。
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あなたという存在は、源泉が創造したものであり、あなたも源泉も、一(いち)なるものです。ところが源泉によって自我が創造されると、あなたと源泉との繋がりは分離されて、私という個人が存在するという認識が起こり、これが真実であるという思いに至るわけです。そして、私という個人は、他の人と一つではなく、また他の自然や宇宙や神と呼ばれるものとは、別の一人の人間であるという思いに至ります。
自我は、この分離された一人の人間であるという想念を創り出しているわけです。そこには、源泉の叡智は届かず、私というのは宇宙の中の小さな存在であるという認識を持つことになるわけです。
自我にとってはこの状態を継続することが目的になるので、自我の消滅が起きないようにあらゆることを試みるようになります。
また、自我のもう一つの働きとして、私の小さな心が行う、判断(ジャッジ)があります。判断は良い・悪い、幸せ・不幸、善・悪など、私が受け取るべきものと受け取るべきでないものを区別します。
そうして、自分の心が常にこの二極の間を行き来することで、源泉との分離をさらに強化することになります。
自分の心が二極の間を行き来するということは、幸せがあれば常に不幸がある、良い事があれば常に不幸があり、心はいつも揺れ動く船に乗っている状態になります。ここには、一時的な幸せはありますが、それは永遠の幸せではなく、いつ不幸になるのかさえ分からない状態です。
あなたが知っている人生というのは、この揺れ動く心の中にあります。そこにあるのは、一時的な平和でしかありません。万物は流転していますから、この平和は、いつか前触れもなく突然崩れ去ってしまう平和です。
自我が、「私とは分離された一人の小さな人間である」という想念を創り出しているわけですから、自我が無くなるというのは、分離感覚が無くなる、つまり「私とは源泉であり、源泉とは私である」という認識に至ります。
ここで重要なのは、自我を持っている「私」と、自我が無い「私」とは、言葉は一緒ですが、全く別の概念です。しかし日本語には、自我が無い「私」を表現できる言葉がないため、どちらも「私」という言葉になってしまいます。
そして、自我が無くなるというのは、自我で判断する「私」が存在しなくなり、無我や無私と呼ばれる状態になります。自我は無くなっても、肉体と精神はそのまま存続します。ラメッシやマハラジにならって、その肉体と精神を合わせて、「肉体精神機構」と呼ぶことにします。
この肉体精神機構は、自我がなく、源泉と一体であるため、源泉の叡智そのもので生きて行くことになります。それが悟りと言われるものです。源泉の叡智とは、全体性そのものであり、全てはバランスし調和した叡智ですから、揺れ動く心がなく人生における様々な体験をすることになり、人生を永遠の平和の中に生きるようになります。
《過去記事》
あなたが信じている幻想(9)
https://en-light.net/archives/7725
あなたが信じている幻想(1)-(8)
https://en-light.net/archives/7454
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