私たちが生活している、この世界はゲームである。
ここで言うゲームとは、遊びのことではなく、多くの人が一定のルールに基づいて相互作用している世界のこと。
人は生まれて、0歳から2歳くらいまでは、身体的な意識はなく、大いなる存在からの視点を持っているのだが、3歳くらいから、身体が自分であるという意識に変化していく。
大いなる存在からの視点を持っているときには、意識に制限がなく自由であったのが、身体という制限を持った肉体を自分自身と認識し始めると、本来の姿である自由さを失っていくことになる。
そして、大いなる存在からの視点を完全に失うと、身体こそが自分自身であるという認識に変化することになり、深く多様な個別体験を行うことが出来るようになる。
その個別体験世界では、物質には物理法則があり、人間関係や社会には秩序や法律があり、それに従って生きるということになる。つまり、これはゲームであり、それ以上でもそれ以下でもない。
ゲームのシナリオを描いたのは、大いなる存在としての自分自身であり、それは神でもあり、制限されているあなた自身でもある。
このゲームの世界で起きていることは、一種の幻想であり、ゲームそのものに価値があるということではなく、このゲームを体験することに価値が存在している。
これは、サッカーにたとえてみると、サッカーというゲームは、あくまでもルールブック上に記載されている規則であり、それだけでは価値を持たない。そのゲームを実際にプレイする、つまり体験すること、あるいは、そのゲームを観覧するという行為を通じた体験にこそ価値がある。
ゲームに対するこの認識は、ゲームの渦中に居るプレイヤーやサポーターの視点ではなく、一段高い位置の視点であり、大いなる存在からの視点へ近づくための第一歩になる。
そして、スピリチュアルな探求の道を進み、大いなる存在からの視点を取り戻すことは・・・
人が自由を取り戻し、心の平安を取り戻す。そして、大いなる存在の英知を使えるようになる。
多くの人が目覚めた世界というのは、そのような世界になる。
コメント
迷いや揺れを体験した後、ここに来て、八雲さんの言葉にふれると、とてもすがすがしい気分になります。すーっとして、居心地がいい‥いつもありがとうございます