悟りのプロセスに入っているときには、自分自身の「本質」と「エゴ」が同居する状態になるので、自分自身の言葉がどちらのものなのか識別することが必要になります。
「エゴ」は、肉体的な体験をするために必要があって生み出されたものですが、肉体的な体験というのは、人の本来の姿である、自由・平安・力・平等といった状態とは逆の状態を体験するものになります。
また、肉体的な体験をするためには肉体を維持することが必要なので、エゴには「継続性」という特性があり、減少したり消滅することを嫌います。なので、エゴが減少したり消滅するような状況になると、当人の意識をエゴに向かわせて、エゴこそが自分自身であり、エゴが無くなることは自分自身を失くすことであるかのように振る舞います。
その振る舞いに乗ってしまうと、それはエゴを肥大させていくだけの結果になり、本来の自分自身の本質に戻ることが出来なくなって行く結果を招くだけです。
また、本質には、思考は存在せず叡智のみが存在します。しかし、エゴには常に思考が伴います。エゴを思考で理解して解消しようとするのは、エゴが仕掛けた罠に自ら飛び込んで行くようなものです。
叡智は、常に直感的です。ただ存在し、存在することに理由は不要です。なので、自分が自分であることに、理由を付けるとか、誰かの評価とか、そのようなことはまったく必要がありません。
「本質」が語ることは、平安・安らぎがあり、力を取り戻し、自由になる言葉になるのに対して、「エゴ」が語ることは、不安・疑いがあり、力をなくして、制限される言葉になります。識別するには、その言葉が何を生み出そうとしているのかを良く見る必要があります。
魂レベルでは「エゴ」を脱し「本質」に立ち戻ることが必要であることを知っているので、エゴの振る舞いに乗らなければ、やがて真の目覚めに到達することは必然です。
コメント
>叡智は、常に直観的・・・ただ存在し、存在することに理由は不要
よくわかりました。
そして、八雲さんの言葉のひとつひとつを噛みしめるように受け取りました。
この記事を読ませていただいて、「本質とエゴを識別する」ということが
しっかりと私の中に刻まれたように思えます。
ありがとうございました。
素晴らしいテキストだと思います。
まったく素晴らしい。
八雲さん、すごいです。
また、忘れかけたら
このテキストに立ち戻って読み返すことでしょう。
> 「本質」が語ることは、平安・安らぎがあり、力を取り戻し、自由になる言葉になるのに対して、「エゴ」が語ることは、不安・疑いがあり、力をなくして、制限される言葉になります。
確かにそうだと思います。
今まで漠然と感じていた事ですが、今回分かりやすい言葉で
簡潔にまとめてくださりありがとうございます。
自分の指針にしたいと思います。
ありがとうございました。