私の場合、車で長い距離を走ることが瞑想になっています。
瞑想と言うと、静かに座っているイメージが強いのですが、瞑想に特定の形はありません。
OSHOの言葉を以下に引用します。
走ることは、瞑想になり得る。
ジョギング、ダンス、水泳、何であれ瞑想となり得る。私の瞑想の定義は、あなたの体とマインドと魂がひとつのリズムで機能している時、それが瞑想だ。なぜなら、それは第四を呼び起こすからだ。そして、もし、あなたがそれらを瞑想として、油断なく目を見張ってやることができたら、オリンピックに参加するためではなく、瞑想としてやることができたら、それは、途方もなくすばらしい。
(途中略)
瞑想したい人は誰であろうと、その人のタイプに応じた瞑想が手に入るべきだ。彼が休息
基礎となる根本は、どんな瞑想であれこの必要条件を満たさなければならない。体とマインドと意識、この三つがすべて統一性をもって機能すること。そうすると、ある日突然、第四が現れる。それを観照、あるいは神と呼んでもいい。神、ニルヴァーナ、タオ、もしそう呼びたければ何と呼んでもいい。
OSHOも言っているとおり、瞑想に特定の形があるわけではありません。
重要なのは、状態です。
OSHOの言葉を借りるなら、「あなたの体とマインドと魂がひとつのリズムで機能している」という状態です。
その状態を作り出せるのであれば、それは瞑想になります。
ダンスすることも、絵を描くことも、音楽を創り出すことも、音楽を演奏することも、走ることも、ヨガをすることも、自転車で走ることも、車いすで移動することも、自動車で走ることも、どれでも瞑想に成り得ます。
ばらばらに見える身体とマインドと魂が、ひとつのリズムで機能するのであれば、それは瞑想です。
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