しばらく、宙ぶらりんの状態になります。
これは、これまでの探究のスピリチュアルは終わったものの、次のプロセスがまだ十分に浸透していないため、何処に行くのか、何をするのか、何も分らないという状態になります。
これは、探究のスピリチュアルの道を進んできた人にしてみれば、終わったのはいいけど、先が見えない、方向性もないという、非常にストレスの溜まる状況になります。
そういう時には、自分に様々な出来事が降りかかってきて、先に進むのか、後戻りするのかを決断する状況がおきます。
現時点での私の状況は、そういった状況で、どちらに進むのかを試されているような感じになりますが、試されているというのは、あくまでも二元性の考え方であり、一元性においては、試されているのではなく、あるがままに進むことを要求されているということです。
全てが一つであるという、まぎれもない体験したのは、2014年7月20日のことでした、
悟る時、私はいない
https://en-light.net/archives/4072
そして、探究が終わったのは、2015年7月20日夜のことでした。
探究のスピリチュアルが終了
https://en-light.net/archives/7054
まるで、測ったように、ちょうど一年の時間で事は起こりました。
この2014年から2015年の間の期間も、そして、2015年7月20日以降も同じですが、スピリチュアルな新しいステージに進むとき、全てがバラ色で進むという保証はありません。 プロセスの途中は暗いトンネルに入るかのような道を進むことも珍しいことではありません。
それでも、この道を進むというのは、その先にある、何かが、とても重要であり、素晴らしいものであるという確信があるからです。
スピリチュアルな目覚めの道を進むというのは、言葉にもできない、人にうまく説明もできない、「それ」を感じているということです。
登山家の有名な言葉に、「そこに山があるから登るのだ」という一節がありますが、この言葉を良く見ると、登る理由を述べていません。つまり、言葉化できない何かが、彼を突き動かしているということです。
スピリチュアルな目覚めの道を進むというのも、まさにそれで、言葉では言い表せない「何か」「それ」を深い所で感じているから、進むのです。
コメント
とても良くわかります。
コメントありがとうございます。
いずれ、「そこ」に立つようになると、何の原因も理由も必要のない、絶える事のない至福あるいは安寧があります。