私には、師匠がいないので、自分で書くということが、自分への教えとなって身になるというところがあります。書いている内容は、自分自身で考えているのではなく、大いなる存在レベルからの情報をチャネリング的に受け取っています。なので、書いていることが総て実践できているということではありませんが、自分自身に浸透させるために書いています。
「事」というのは、そもそも中立であり意味づけを行うのは自分自身である。どう意味づけするのかは、自分自身が持っている観念(信念、世界観とも言う)が行うのであり、他人が意味づけするわけでも、社会が意味を定めるわけでもない。自分自身である。
意味づけすると、ほとんどの場合、良い・悪いという区分になる。それは「事」を区分することであり、区分するということは、分離的である初期のスピリチュアルの段階においては、問題にならないが、段階を進んで行くためには、いずれはこの壁を乗り越えなければならない。
中立である「事」に意味はそもそも存在しないが、それを経験・体験できるという「価値」が備わっている。どのような事であっても、喜んで迎え入れるということは、「事」がそもそも持っている「価値」を認めて生きるということである。
ここには、良いも悪いも存在しない。経験・体験できるという喜び・感謝だけである。
文章にすれば、簡単なことだが、実践するのは容易ではない。全て、どのような事があっても、喜んで迎え入れるというのは、これまでの人生の正反対のことを求められるようなものである。
スピリチュアルな目覚めにおいて、初歩段階においては、これまでの人生では知らなかったことを学ぶ、体験していなかったようなことを経験するということになるため、自分自身を根底から変えて行くというチャレンジにはならないが、段階が進み第四段階に来ると、自分自身を根底から変えて、これまでとは異なる観念(信念、世界観)を持つということが必要になる。それがスピリチュアルな覚醒である。
コメント
イエスの山上の垂訓を思い起こさせるような記事ですね。
聖書の本当の中身・目的がようやくわかってきたように思います。
イエスの周りに集まってきた人々も晴れやかに聞いていただろうと思います。
今の私の心もとても晴れやかです。
あと禅の世界にもまっすぐ通じますね。
そして第四段階以上に成長・覚醒することが決して遠いこと難しいことではないと確信しています。
読むたびにブログの更新(読み手のスピリチュアルな成長)が楽しみになります。