ここ最近ずっと、「悟りは教えることができるか?」ということについて黙考していたのですが、結論から言えば「教えることはできない」ということです。アジャ・シャンティさんなどのように、悟りについて教えている人も、悟りそのものを教えることは出来ないと語っています。
悟りというのは、「いつ起きるのかわからない」「どういう条件があれば起きるのかわからない」「意図的に起こすことはできない」という特性があります。
【いつ起きるのかわからない】
多くの先人が言っていることでもあり、私自身も経験したことですが、悟りがいつ起きるのかは、自分自身ではわかりませんし、師匠にもわかりません。これは、悟りそのものを起こすためのタイミングは、その人自身の奥深くにあり、そのタイミングを誰かがコントロールすることはできず、タイミングがコントロールされていない時、そして必要な時にそれは起きます。
【どういう条件があれば起きるのかわからない】
悟りが起きる条件というのは、人によって様々ですし、一個人においても、起きる都度の条件は変化します。なので、一度悟った人が、同じ条件を揃えたらまた起きるのかというと、そのようなことにはなりません。つまり、悟りが起きる条件というのは、毎回異なり、次にどのような条件になるのかは予測することができません。
【意図的に起こすことはできない】
上記の二つの特性から言えるのは、悟りを意図的に起こすことはできないということです。それは、来る必要がある時に来るものであり、私たちの自我が想像する範囲の中になく、自我が想像できる外側に存在します。
そのため、意図的に起こすことができません。
【教えることはできない】
「悟りを起こす」ことを教えるためには、「意図して条件を揃えたらそれが起きる」ということが必要になります。起きるか起きないかわからないことについては、教える・学ぶという立場に立つことはできません。なので、悟りについては、教えることはできないということになります。
【私は、あなたを悟らせることができる?】
悟るという言葉は、様々なレベル・段階があるのですが、明確に区分して使っていることはまれです。そのため、悟るという言葉は様々な意味で使われてしまい、誤解が生じているのが現状です。
悟る手前の段階は「気づき」というものです。「簡単に悟る(悟らせる)ことが出来る」といったことを言っている人の場合、大抵は「気づき」を起こさせているだけです。これはこれで価値があることですが、悟りと気づきは別物です。
悟りを経験すると分かるのですが、それを経験するとき、それまで「頭の中で想像していた悟り」というものを超えた体験、期待を超えた体験になります。それは、まったくの想像外の体験です。
なぜなら、想像という行為は自我が行っているのですが、その自我が沈黙した時、活動を止めている時に、悟りが起きます。つまり、自我の想像という壁の向こう側に悟りの体験があります。
なので、(本来の意味で言う)悟りは、気づきといったレベルではまったくなく、自分の世界観・価値観が根底から揺さぶられる経験です。
【悟るための準備を教えることはできる】
では、悟るための方法があるのかというと、「悟りに必要な、知識と経験とエネルギーの準備をすることを教える」ことはできます。そして、準備のできた人が、自らの意図で悟りに向かって初めて、必要な時に悟りはやってくることになります。
弟子の悟りを師匠が起こすことはできません。師匠ができるのは、悟るための準備をさせることです。そして、準備が完成し、悟る時に来たら、弟子に悟りが起きます。つまり、悟りというのは、あくまでも本人のものであり、他の人が意図してそうさせるということはできません。
(真の)悟りを教えている人の場合、厳密に言えば、悟りを教えているのではなく、悟るための準備を教えているということです。
ただ、そういった厳密な表現をすると、悟りを目指そうとしている人から見たときに分かりにくくなってしまうため、表向きは「悟りを教える」という言い方をするのが普通になっています。
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