その4から続き(リンク)
スピリチュアルの立場から見ると、ノンデュアリティで言われていることには矛盾がある様に見えますが、それは視点が逆転しているからです。スピリチュアルの延長線上にノンデュアリティが存在するのではありません。ノンデュアリティが源(みなもと)すなわち源泉であり、スピリチュアルはそこから創造された結果なのです。
ここで考えなければならないのは、原因すなわち源泉から結果であるスピリチュアルを考えるということです。
源泉は一なるものであり、源泉から創造されるものは全て源泉の中にあり、源泉の外側に生み出されるわけではありません。
全ては源泉の中の映像であり、人と呼ばれる肉体精神機構とそれが持ちうる五感を含めたあらゆる感覚、これらは全て源泉の中に現れそして消えゆくものです。これらの映像を現実として物質とかエネルギーと呼んでいるだけであり、これらは全て見かけが存在しているだけです。源泉の中に現れる肉体精神機構が私たち人間であるということです。
ここで重要なのは、源泉と肉体精神機構が別の存在では決してないということです。地上に現れている人間、すなわち肉体精神機構は全てが例外なく源泉であり、その源泉が見かけ上の別々の肉体として表現されているにすぎませんから、人は例外なく源泉そのものであるということです。
見かけ上個別に表現された源泉である肉体精神機構には、それぞれに固有の人生というストーリーが源泉によって定められてこの世に生まれてきます。
この固有の人生というストーリーは、生まれてきた人の数だけ存在しますから、実に様々なバリエーションがあるわけです。このストーリーは、源泉(すなわち、これを読んでいるあなた自身)が生み出したものです。
どの様な人生にするかは、源泉の意図によります。
この世に人として生まれて来るということは、源泉から切り離されたかの如く人生を経験するということになるので、生まれて来る時には自分自身がストーリーを定めたことは忘却の彼方にあり、思い出すことはできません。
このストーリーは人によっては、生まれ変わりということを経験することが含まれていることもあります。その場合、とてもリアルな出来事として経験することになります。
つまり、生まれ変わりというものが存在するのは、源泉の意図であり、これを読んでいるあなた自身の意図であるということですが、私たちが人間という見かけ上の分離の姿をしている時は、源泉全体ではなく源泉の部分であり、部分が全体の意図を知ることはできません。
そこにあるのは、人生というストーリーの中に組み込まれた「過去生・生まれ変わりという経験」です。重要なのは、過去生が存在するかどうかではなく、過去生という「経験」が存在するということです。
ノンデュアリティのティーチャーが過去生という経験を持っているということと、ノンデュアリティの立場において、過去生が存在しないということは、一見すると矛盾しているかのように見えますが、そもそも源泉が創造したストーリーであることを考えるなら、そこには何の矛盾もありません。
そこに存在するのは「経験」なのです。
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