境界を超える時、世界は反転する

スピリチュアル◆悟り・ノンデュアリティ

スピリチュアルな成長の道を進んでゆく中で、「探究のスピリチュアル」から「一元のスピリチュアル」という境界を超える時、世界に対する認識が反転します。

※「探究のスピリチュアル」「一元のスピリチュアル」については、こちらの記事(リンク)を参照してください

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認識が反転する時は、それまでの自分正しいと信じていた現実という観念を思考的理解ではなく、気づきで書き換えるということが必然的に起きます。

これは、「スピリチュアル以前」から「情報のスピリチュアル」や「探究のスピリチュアル」経ることなく、「一元のスピリチュアル」に進む人の場合でも同じです。そういった人達の場合は、スピリチュアルの探究を経験していないので、スピリチュアルな世界全体を見て語っているわけではなく、悟りのみを語る傾向があります。悟りを語る有名な人に多く見られます。

この書換えという境界を超える時は、思考的理解を超えることが必要となり、これまでの自分が現実であると信じてきた世界が実は幻想であるという不安を乗り越えることになるため、エゴによる思考的混乱を生じ、数か月以上にわたって苦しむことは珍しいことではありません。 ラメッシでさえこの混乱を経験しており、ラメッシの師であるマハラジはそれを詩として表現しています。

私自身も、特に昨年から今年にかけて、この苦しい時期を通過してきましたが、最近やっとその先が見えてきたところです。

この思考的混乱を体験していなければ、あなたは「情報のスピリチュアル」か「探究のスピリチュアル」という立ち位置、あるいはそれ以前に立っていると言ってもいいでしょう。

これは、「探究のスピリチュアル」の価値が低く「一元のスピリチュアル」の価値が高いということではありません。「探究のスピリチュアル」を一生を掛けて進むことも大変価値があることです。

「一元のスピリチュアル」に進むかどうかは、自分が決めたことではなく、源泉(これは、神とか創造主とか創造とか根源とか意識とか、様々な呼び方がされますが、ここではラメッシにならって源泉という言い方で表現します)が決めたことであり、あなたが決めることはできず、私が変えることもできません。
源泉がそれが起きることを決めていれば、「一元のスピリチュアル」に進むことが起きます。

■一元のスピリチュアルを説明する言葉における注意点

この世界のほとんどの人は、二元性という体験を求めてこの世界に居るので、二元性の中に生きています。そこから一元性に向かう人は全体から見れば少数です。

そのため、我々が日常使っている言葉とその文法は、二元性が前提となって出来上がっています。この言葉と文法は、二元性に生きている人達にとっては、理解が容易であり、言葉とは現実そのものを現しているということになります。

ところが、一元性の世界は二元性の言葉で説明できる範囲を超越しています。それゆえに、通常の言葉や文法を使って一元性を正確に表現することはできません。しかし、私たちが持っているのは、二元性の言葉と文法しかないので、これを使うしかありませんが、その言葉が表しているのは、一元性そのものではありません。

つまり、一元性を語るとき、その言葉が表しているのは、一元性というものを指し示しているだけであり、一元性の本質は言葉を超えたところにあります。

そのため、言葉による表現を読んだり聞いたりするときに言葉に囚われると、矛盾や解釈違いが生じるのことになります。

重要なのは、言葉そのものが言っている意味ではありません。
言葉が指し示している先に本質があります。

二元性を超えた一元性を理解するには、言葉を足掛かりとして、それを超えた世界の本質を捉えることが重要です。

これを、図式的に表して見ると、こんな感じです。
二つのボールが接合された「一つの物体」があるとします。

2Balls

この物体を視点Aから見て説明すると、物体は青のBALL1と赤のBALL2から構成されており、「二つの異なる要素がある」という説明になります。
一方で視点Bから見て説明すると、青のBALL1は赤のBALL2に隠れて見えないため、物体は赤のBALL2が「一つだけ存在する」という説明になります。

この説明は、どちらも正しい説明です。しかし、物体の図を見ないで、言葉だけを見れば、矛盾しているように見えます。
一元のスピリチュアルを二元性の言葉で説明しようとすると、聞き手に応じて異なった角度からの説明になることが良くありますが、その異なった角度からの説明を並べて比較すると矛盾しているように見えます。
これは、一元性を二元性の言葉と文法で説明しようとするときに、不可避的に起きることです。重要なポイントは、矛盾している説明のどちらも正しい説明であるということです。

なので、言葉そのものではなく、言葉が指し示している事柄を直感的に理解することが重要になります。

■それぞれの段階における認識

(1)スピリチュアル以前

私と世界は分離している。
自分と自分以外の人はあきらかに別々の肉体であるし、自分と地球は人間と天体だから、同じであるはずもない。だから、私と世界は分離しており、それぞれ独立した存在である。

(2)情報のスピリチュアル

私という個人が存在する。
私は、肉体的な存在であるだけではなく、精神的、エネルギー的な要素を兼ね備えている。人と人は、意識の深い部分で繋がっている。

(3)探究のスピリチュアル

私の世界は、私が主体であり、私の意識が創っている。
私が見方・考え方を変えると、世界が変化する。だから、私と世界は、つながっている。
私は、肉体とエネルギーと精神によって構成されている存在である。

※ここまでは、スピリチュアルな世界に進むことは、連続的な変化になりますが、一元のスピリチュアルに進むと、突然世界が変わり、認識が反転します。

(4)一元のスピリチュアル

私という個人は存在しない。行為は存在するが、個人は存在しない。
全ては源泉が創り上げているものであり、源泉が主体である。
私という個人が存在しないのだから、私の自由意志はない。

コメント

  1. マーシャ より:

    源泉が私と世界を創っている。源泉が主体、私が従体。と言うことだと、二元性を感じるのですが…。ここで言う私とは幻想ストーリーを生きている肉体ということですか?
    一元性(ワンネス)なら私は源泉であり全てなのですよね?

  2. yakumo より:

    > マーシャさん

    記事はまだ作成中ですが、二元性についてのコメントの返信を書くと、これから書く記事とダブってしまうため、記事の完成までしばらくお待ちください。

    >> 私は源泉であり全てなのですよね?

    はい、そうです。

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