慈悲と愛の違い

この記事における慈悲の解説については、私自身の解釈ですので、仏教における慈悲とは少し異なる説明になるかもしれません。あしからず。

スピリチュアルにおいて、愛が語られることが多いのですが、慈悲と愛については、似ているけれども、立脚点が異なるものです。

愛が人と人を結びつけるエネルギーであるのに対して、慈悲とは、対象の人やモノの中に、自分自身の反映を見つけることから起きる心のことになります。

愛が自分と他との境界を無くしていくというワンネスそのものを表現しているのに対して、慈悲は自分と他とに境界があることが前提となり、境界の向こう側の他の中に自分を見出していくことでワンネスに向かうということになります。
なので、慈悲は分離が前提として存在し、分離を超えていくという順番でワンネスへ向かうことになります。

わたしたちは、分離を体験するために肉体を持った人間として生まれているため、分離の方が日常的であり理解しやすく、ワンネスの方が理解が難しいという側面があります。
慈悲は分離していることが前提としてあるので、愛に比べると入りやすくなります。

慈悲の入口は、自分と他が異なることを認めるということです。
そして、自分ではない他を創り出しているのは、自分自身の高次元の部分であり、神とも呼ばれる部分です。人は、全て肉体的な存在であると同時に、もっと高次元の存在でもあり、高次元の部分を神と呼ぶこともあります。自分が今生において、どのような経験をするのかを決めているのも、この高次元の自分自身、つまり神としての自分です。
この高次元の自分自身というのは、私たちが分離的な意識である時には感じ取ることができず、自分自身の意識を高めていくこと(スピリチュアルな成長)でしか認識することはできません。なので、もしあなたが、高次元の自分自身を認識できないとしても、肉体的な存在を創り出しているのが高次元の自分自身ですから、それは必ず存在しています。

そして、自分以外の他を創り出しているのも、高次元の自分自身です。それは自分自身の意識の深い部分を見つめていると、いずれ感じることができるようになります。そして、感じ取ることができれば、自分も自分以外の他も、源(ワンネス)が同じであることに気が付きます。
そうなると、他の中に同じ源を感じることになり、自分と他が形として分離されているにすぎず、源が同じであり、全ては一つであることに気が付くようになります。

他の中に同じ源を感じ取ると、自分と他は同じ質であり、自分自身が大切であるように、他も等しく大切であることが判ります。そうして、自分も他も等しく大切に想い、行動することが慈悲ということです。
そして、他とは人のみならず、自然も動物も天体も、この宇宙の自分以外の一切のモノのことです。

このことを悟るなら、自分も他も全ては一つであることは、必然であると理解することになります。

慈悲というのは、分離という扉を開くことで、全てが一つであることを悟って行く道筋なのです。