悟りというのは、一度で起きるものではなく、何度も起きる気づきによるものであるということを以前にも書いていますが、経営禅研究会のページ(http://www.keiei-zen.com/zengo/zengo023.html)に、分りやすい解説がありますので、長いですが引用させてもらいます。
<初禅>いろいろ起きてくる欲望や様々な善くない習慣に流されずに、心に起きてくることにただ注意を凝らしていると、何かにとらわれて勝手なイメージを描いたり、あれこれと考えを巡らしてしまうという心が見えてくる。それが「苦の現象」だと分かり始める。それをこだわらずに放っておくと、思考の連鎖や苦の感情が少なくなり、心が落ち着いてきたという「喜」と「楽」が生じてくる。
<二禅>何かに反応して、それをすぐ言葉により概念化し思考を連鎖させる状態が停止し始める。苦の起きる瞬間がわかるので、あえて苦のありかを観ずる必要もなくなる。それによって苦悩をほとんど感じなくなる。心の集中度が上がりはじめ「喜」と「楽」が味わえる。
<三禅>心が味わっている「喜」と「楽」さえ、単なる瞬間の反応としか感じられなくなり「不楽」となる。苦悩も現れず「不苦」でもある。言葉や思考に落ちずに、ただ見、ただ聞くだけでいることが多くなる。そうすると、身体的な苦痛により生じる感情さえ気にならなくなり、身体にも「楽」を感じる。
<四禅>さらに禅定が深まると、すべての物事と一体となり、想いに発展していかなくなる。すべてが意識から消える。意識がなくなるわけではなく意識が明晰そのものであるため、対象が意識から脱落するのである。いわゆる「覚醒」である。眼耳鼻舌身のまま色声香味触となり、意識は対象と問題を起こすことなく、そのまま自由に万物に対応していく。そして、身心の脱落が起こり「悟り」に至り始める。
この説明は、必ずそうなるということではなく、概ねこういう感じになるという捉え方で居ることが重要です。進み方を思考で捉えると、それが執着になって、なかなか進まないということも起きます。人によっては、一度四禅を経験して、一禅から始まることもありますし、二禅から三禅の間を行ったり来たりということもあります。なので、自分の立ち位置が概ねどのあたりにあるのかを知る為の指標の一つとして捉えてください。
悟りの前に、あれこれ思考しても、悟っている時は思考が止まっているのに等しい状態ですから、思考を超えた世界になります。
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