喪に服すことは必要か?

スピリチュアル

喪に服すということを調べると、何をしてはいけないとか、どれくらいの期間といった表面的な事は沢山出てきますが、なぜ喪に服すのかという、そもそもの意味はほとんど出てきませんので、喪に服すということの意味について書きます。

◆喪に服すという行動の背景

私たちは一般的に、暗黙の了解として、
「この世が主体であり、あの世は良くわからない世界」
という共通認識があります。
それゆえに、「死んだらどうなるのか?」という質問が出てきます。
つまり、死んだらどうなるのか良くわからないという背景があって、喪に服すという行動が出てきます。
スピリチュアルな事を学ぶというのは、生と死について学ぶことでもあります。
さらに、ノンデュアリティを学ぶということは、生と死を超越することです。

◆死ぬということは根源に戻ること

人という存在の根源は、大いなる存在・神・源泉などと呼ばれ、私たちの本来の姿は肉体ではなく、源泉そのものであるということです。
肉体を持っている人生というのは、本来の姿から、仮の姿として現れたものであり、やがては本来の姿に戻ることが全ての人に定められており、それが死というものです。
それゆえに、死というのは聖なる帰還です。
ですから、死とは祝福なのです。

◆喪に服すことは必要か?

死が聖なる帰還であり、祝福であるということを知っていれば、喪に服すという行動を起こす理由が無くなります。
喪に服すというのは、人の本来の姿を知らないが故に、死に際して悲しみの方が大きくなり、それが社会一般の風潮になっていることから出てきた行動なのです。
かつて昭和天皇がお亡くなりになる前、自分の死に際して社会が喪に服すことで社会活動・経済活動が停滞するのは自分の本位ではないということを言われていました。一般人とは立場が違うとは言え、この考え方が死に対して本来取るべき行動だと思います。

◆社会の一員として

私たちは、一人一人が社会の一員なので、自分の考えと社会一般の考えが異なることはよくあります。
死に対する考え方は、スピリチュアルやノンデュアリティを学んでいる人と、そうでない人の間に大きなギャップがあることも珍しくはありません。
なので、自分自身や自分に近い肉親の死に際して、自分の中ではスピリチュアルな立場を取りつつも、社会一般の考え方も尊重することが必要になります。

◆私個人として

私の場合、生前に聞いた父の考え方を思うと、死に際しては、「喪に服さない、以前と同じように日常をより良く生きること」が、故人を思いやる行動につながると考えています。
また、私自身の場合についても、喪に服さないことを希望しています。

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