日時:2008年8月10日11:00~12:00
インタビュー&タイプ: cheer
インタビュアーBlog: ちあの散歩道 http://blog.goo.ne.jp/cheer_001
編集:八雲
■■パワースポットの話から
―― パワースポットの選び方は
八雲:パワースポット?うーん、難しいですね。いわゆる一般論でいうと、一番いいのは自分が気に入った場所に行くという……単純な話になるんですが。
―― 気に行った場所の感じ方というのはあるのですか?
八雲:気に入るわけなんで、感じ方云々の問題ではなくて、そこにいて自分が気持がいいかどうか、基本はそれだけです。
自分の気持ちが落ち着くとか、雑念が無くなるとか、そういう気分になれる場所というのがいちばんいいです。いわゆるパワースポットではない場所の方がいい人のときもあります。
ほんとの意味でのパワースポットというのは「自分のお気に入りの場所」なんですよ。
―― 一般的に、パワースポットの情報は巷にあふれていますが、それは必ずしもその人にとっていいとは限らないということですね。
八雲:はい、そうです。ただし、自分がどこに行けばいいかわからないときの参考にはなるんです。私のホームページにも、パワースポットの情報はたくさん載せています。しかし、基本的にはあまり詳しく説明していないんですよね。それはあくまで私が感じたことであって、その人が行くと違うかも知れないし。ですから、一番いいのは自分が気に入るかどうかなんですよ。気に入り方は、行って気持ちがいいかどうかです。
―― 私の場合はパワースポットにわりとたくさん行っている方なんですが、たとえば「弊立神宮」では、ズシン、ズシンという凄い感じがあったんですね。その前に「高千穂神宮」に行ったんですが、どしゃぶりの雨だったのですが、ふ~ん、という感じであまり強いものを感じませんでした。
今年は「宇佐神宮」に行ったのですが、宇佐神宮の奥の院である「大元神社」にも車で行きましたが。
八雲:車で?ほんとの奥の院というのは、車で行けるところじゃないんです。
※宇佐神宮奥の院の大元神社については、以下のページを参考にしてください。
玄松子の記憶 > 神社記憶 > 九州地方 > 大元神社
http://www.genbu.net/data/buzen/omoto_title.htm
―― 車は途中までなんですが。今まで過去にパワースポットで感じていたようなエネルギーをあまり感じなくなっている自分に気付きました。確かに穏やかで気持ちがいいにはいいのですが、もう一回行きたいなとはあまり思わなかったんですね。「弊立神宮」はチャンスがあったらもう一回行きたいなとは思っているのですが。
何度も同じ場所に行きたいなと思ったときは、自分が納得するまで行くという感じでいいのでしょうか。
八雲:それでいいんですよ。それはその人の役割によって違うんですよ。私の場合は有無を言わさずそこに行けという状態になるときがあります。“呼ばれている”という状態ですね。そうなると、一回で分かることも多いですが、一回行って何も感じない、もう一回行っても何も感じない、三回目でやっとわかるというケースもあります。
―― すると、呼ばれているときは、ほんとに有無を言わさずなんですね。今年の1月の銀座のお茶会のときにも八雲さんにお聞きしたのですが、「“呼ばれる”という感覚は、たとえば昔サラリーマンをしていたときに朝会社に行くためにワイシャツを着てネクタイを締めているときに、「あ、呼ばれたな」と思うことも何度もあって、そのときは、矢も楯もたまらずに呼ばれたところ(神社)に行くということです」と、お話されたのですが、そんな感じなのですね。
八雲:呼ばれるというのは、声が聞こえるわけでもないんだけれど、呼んでいるのがわかるという状態です。テレパシーで繋がるという感じです。
呼んでるなというのは、昔はたくさんありました。今はだいぶ少なくなりましたが。それはいわば修業期間中でもあったからなんですが、有無を言わさず呼ばれるときというのがあります。だからぼくら(のように、こっちの仕事をする人)が言っている意味合いと、こういう仕事をする人じゃない人が言っている意味合いと、そこら辺がちょっと違うんです。
■■人はそれぞれ生まれる時に「役割」を持って生まれてきている
―― そこのところをもうちょっと具体的に。たとえば一般の人の方が格段に多いですよね。ただ、その一般の人の中から八雲さんのような方が突然生まれるというのはあるのでしょうか。
八雲:ゼロから始まる人はいないです。もともと役割を持っていて、(自分の役割に)突然気がつく状態になるということはあります。まったくゼロからそういう人(スピリチュアルな感覚が秀でた人)が生まれるということは非常に少ないです。稀です。ほんとに稀です。むしろほとんどの場合は生まれる前にだいたい決まっているんです。生まれる時に役割が与えられている場合もあれば、(生まれるずっと前から役割を)引き受けている場合とがあります。役割がある人というのは、おおむね生まれるときに決まっています。
いきなり子供のときからそれが始まるとアンバランスになったりすることが多いので、大体は人間形成ができたころに始ったりするんですよ。
ぼくなんかも、10年前はこの仕事をやるとは思っていませんでした。単なる趣味といった感じでしたから。
―― 趣味のスタートをされたのは、だいたいお幾つくらいのときなのですか。
八雲:1997年くらいからだったと思います。それまでは単なるオカルトだと思っていました。うちの父親も若干オカルトが好きなところがあり、UFO本なんかもいっぱいあったんですが、まあ面白いけれど自分とは違う世界だと思っていました。1997年くらいから、本屋で見つけて手にしたヒーリングに関する本を読んだりとか、本の内容なんかもよくわかんなかったですでけど、何か面白そうだなとそんな程度から始まったんです。それがある意味、向こうから「始めろ!」というサインのようなものですね。37歳のころです。
―― 佐藤愛子さんの本の中に、江原さんの話がよく出てくるんですが、江原さんは小さい時からスピリチュアルな感覚が強かったと、本で読んだことがありますが。
八雲:江原さんのような人は必ずしも多くはないです。人間を一定の基準で考えるってよくないじゃないですか。それぞれ個性がありますから。ですからこちらの世界にもみんな個性があるんですよ。だから小さい時から始まっている人もいるけれども、大人になって始まった人も結構います。ぼくのレイキの先生やった人も30過ぎてからです。
―― とてもパワーのあった方が、突然パワーがなくなったという話も聞きますが、そういうこともあるのでしょうか。
八雲:ちょっとあります。役割が無くなれば、そういう力も必要無くなりますから。あくまで、役割の世界ですから。ぼくもときどきそんな話をするんですが、役割が終わったら死んでいるか、または生きていてもぜんぜん違う仕事をしているかということです。
―― 私たち一般の人が、セラピストになりたいとか、スピリチュアルな感覚を身に付けて人の役に立ちたいとかも、それもすでに役割として生まれたときにその人が持ってきているかどうかということになるのですね。
八雲:役割として生まれてきていることが多いです。努力をたくさんしたから、そういう人になれるかというと、かならずしもそういうものではないんです。「草スピ」の話を前にブログに書いたのですが、野球選手も努力をしたらみんなイチローになれるかといとそれは無理な話なんですよ。努力したら、プロ野球の二軍に入ることぐらいはだれでも可能性があるかもしれないぐらいですね。一軍に入れるレベルというのは全然違うから、こういう仕事をする人たちも基本的には役割があります。
―― カウンセリングを受ける側からいいますと、どういう視点でカウンセラーを選んでいくかということもありますが。
八雲:それで、ぼくはずっとブログを書いているんです。ブログを読んでくれていれば、大体どんな人間か(ブログ上で)見当がつくじゃないですか。だから書いているんです。ブログは2002年から書いています。
ですからカウンセリングを受けに来られる方も「ブログを読んで」という方が多いです。中には「ぜんぶ読みました」という方もいます。
うちの場合はだいたい「半年くらいブログを読んでいました」という方が多いですね。そういう見方をしていただければいいかなと思います。
―― ブログを読む中で、カウンセラーである発信者と受け手であるクライアントさんの相性のようなものの見極めがついた状況の中で実際のオーダーが入るという感じですね。
八雲:わりとみなさん、ブログを読んでから来られる方が多いです。ですから、いわゆる素人的な質問が非常に少ないです。素人的というか、突飛な質問が少ないですね。ある程度、質問の中に(スピリチュアルな世界の)素地を持って来ます。たとえば「私にオーラってあるんでしょうか?」などという質問は意外と少ないですね。オーラがあるということが前提の上で話を聞こうとする人が多いです。
■■オーラの話
―― オーラの話が出ましたが、オーラの部分で、一般の人が「あなたのオーラは何色だ」とか言われたと、そんな会話も日常的に増えてきたように思いますが、オーラはそれぞれが持っているということですね。
八雲:ヒーリングセミナーなどでも話しているのですが、「肉体」と「オーラ」がどちらが先かということです。
「オーラが先で肉体が後」なんです。オーラが無かったら死んでいるんです。ヒーリングの練習をしていくとだんだんわかってきますよ。肉体よりもオーラが先の存在だということです。つまり、肉体からオーラ、出てないですよ。オーラが凝縮すると肉体になるんです。ヒーリングをずっとやっていくと、それは実感的にわかります。「オーラの色は何色ですか?」という質問もテレビの影響で多いです。
―― 八雲さんがご覧になって、巷にある「オーラ写真」と実際の差異はあるのでしょうか。
八雲:ぼくは自分の「オーラ写真」を見たことがないし、撮影してもらったことはないですが、おおむね間違ってはいないと思います。ただ、科学的にどうなのかは調べてはいないので何とも言えないと思っています。何人かはオーラ写真を持って来られた方がいるんですよ。それを見るかぎりそんなに間違ってはいないなという感じです。オーラの色というのは精神状態で変わっていくので、その辺まではちょっと追っかけきれないですが。オーラの色は精神状態で変わりますし、「私のオーラの色は何色ですか?」ということも精神状態で変わるんですよ。オーラに良く似たものに、もうひとつ「ハロー」というのがあって、そのことをオーラと言っている人もいますね。日本語にすると「後光」ということですが。ハロー=後光は肩から上の顔と頭の周りということになりますが、こちらの方はあまり色の変化がないので、色という場合、そのハローを観ている人も多いらしいです。「オーラの色は何色ですか」と訊かれれば、全身を見ないといけないんです。肩から上を見ている場合は、それはハローをオーラと言っていることが多いです。ただ、それを区別している人がいないんですね、なかなか。とりあえず色があったらオーラと言っている人も多いと思います。
―― オーラはいつくらいから言い出したのでしょうか。
八雲:だいぶ古いですよ。かなり昔からです。人間の肉体が何千年も前からそんなに変わっていないですから、オーラも昔から言われていました。
■■テレビの中のスピリチュアルブーム
―― テレビのスピリチュアルブームなども話題になっていますが。
八雲:江原さんの影響は大きいですよね。テレビで観ている人が多いので、まあそういう役回りだと思いますが。ただ、結果を見るとゴールデンタイムにはでなかった方が良かったですね。
カウンセリングというのは実際やってみるとわかるように、そんなにテレビ受けする内容ではないです。それを深夜帯でやっていればそんなに視聴率を気にしないでいいですが、ゴールデンタイムでやるということは、視聴率の世界ですからね。
―― 視聴率を気にしながらということは、受けをねらわざるを得ないということですか。
八雲:受けること(視聴率を取れること)を言わざるを得なくなるということです。
深夜帯でしたら、多少受けなくてもよかったものを、ゴールデンになると受けなければいけないから、内容的に変わってきています。ぼくもそんなにいっぱい観ているわけじゃないけれど、ゴールデンタイムに出てからやはり変わりましたね。
―― 江原さんの番組を見ている人は私のまわりにもたくさんいます。そして江原さんの言われることを支えにしているような方も多いのですが。けっこうプロ的な、気功を教えているような方もよく江原さんの番組のことは話題になりますが。
八雲:多いですね。もともとそんなにこちらの世界ある程度勉強していると、テレビで観ていることは、江原さんが知っていること、考えていることを言っているだけで、それだけが真実ではないとわかってくると(番組の内容はだんだん)面白くはなくなってくるんですよ。
―― カウンセリングも含めて、メディアに載った情報を自分でキャッチしても、自分の存在や感性を知りたかったら、個人カウンセリングを受けてきっちり観てもらった方がいいということなのですね。
八雲:そうです。「テレビで江原さんがこう言っていましたがどうなんですか?」という質問もよく受けます。たとえば有名な話で、よく質問を受けるのが、「夜、神社に行ってはいけないとテレビで言っていましたが、ほんとうですか?」とか。夜中に行くのは全然問題ないですよ。行ってはいけないと言っているときにそれは、「江原さんの体験ではそうだった」ということです。彼はすごく霊媒体質というか敏感体質なので、彼が安定していない時に夜行くとややこしい問題が起きると。ぼくが行けば何も問題は起きないんですよ。それは彼にとっての真実であることは確かだけれども、それがみんなに当てはまるわけではない。神社の中でも夜祭りしている神社がいっぱいありますからね。伊勢神宮などでも夜に祀り事をやっているんですよ。実態をみてみると、夜中に祭りをやっているのもいっぱいあるし、夜に参拝に来て下さいという神社もいっぱいあるし。有名人の言葉だけがみんな知ってるだけになっちゃってるけれど、実態はそうじゃないんです。夜参拝専門の人たちもいますから。うちに来たこともありますよ。仕事として始める前の時期だったので、ロイヤルホストでお茶飲みながら話をしたんですが、そのグループは夜に参拝するのが専門で、なぜかというと、昼間は人気(ひとけ)があって「ざわざわしている」から、夜の方がよくわかるということです。
―― テレビなどの情報で流れてくるものは、一般受けするかどうかが大事なんですね。
八雲:一般的に受ける情報というのは、たとえば、“危ない!”と言った方が一般受けするんです。恐怖のところにポイントを当ててしゃべりをするとみんなこっちを向いてくれるんですよ。ところどころに怖い話が出てくると、みんな覚えておいてくれるんです。で、しかも断定的に言った方がいいんです。そういう風に言った方が受けるのは確かです。テレビに出ている有名人のスピリチュアル系というのはたいていそれをやっています。でないと、受けないから……そうしないと視聴率も上がらないし。
―― 真実というのはメディアの流れとは違うところにあるということをひとりひとりが利口になって本来探って行かないといけないですよね。
八雲:はい、そうです。自分の感性でちゃんと観て行かなければいけないんだけれども、何かそういったものに頼っている人って結構多いです。
―― 情報収集も、日常生活の中で自分のアンテナをしっかり立てて自分の感受性の中で何を感じて行くかをもっともっと研ぎ澄まして行かなければなりませんね。自分らしさの中で自分で求めて探り当てて行くことが大切ですね。
八雲:はい、ですから最初の話に戻るけれども、パワースポットも自分の気に入っているところが一番大事ということになります。だれかの書いたことを参考にはしてもいいけれど、それを絶対視はしてはいけないと。
なので、ぼくが言うと、「パワースポットは自分の気に入っているところが一番いい」という話しになるんです。でも、「あそこが絶対いいです」と言う話の方が話としては受けるんです。
例えばぼくなんかは、「諏訪大社」が自分にとって、一番エネルギーが強いので、それを使って、「諏訪大社が一番だ!」と言ったほうがみんなには受けるんです。でも、それは絶対ではないんです。一番じゃない人が大半だから。そこら辺のバランスのとれた話をすればするほど、ネタ的にはつまらないんです。
―― 私が以前八雲さんのカウンセリングを受けた時に、観音様に行くといいですよ、といわれて、千葉にある「笠森観音」とか、那古船形にある「崖観音」などにも行ったんですけど、笠森観音などはとてもいい場所にあって素敵なんですが、何かここではないなという感じがしたんですね。
八雲:うん、うん。
―― むしろ私の場合はすぐそばにある小さな神社に行ってみたらすごく気に行ったんです。ずっと長年住んでいるのですがそこに行ったのは最近なんですが。初めて行ってよ~く見回すと、見回しているうちに、「あっ、ここっていいじゃん」という気分になったんですね。宮司さんもふだんはいない、ほんとに小さな近くの無名の神社で、社殿も一度戦災で焼けて、今風なものが建っているだけなんですが、でもなぜかすごく気に行ったんですね。そういう自分なりに何か感じた場所を大事にしていくということは大切なことなのでしょうか。近くという安心感もありますし。
八雲:大事にしたいと思ったら大事にすればいいと思います。そこにはその場所と自分のあいだに呼びあっている何かがあるから。
―― 呼び合うというのは、有名な由緒のある神社とかでなくても、何かをそこに感じたらその縁を大切にして行くということも大事なんですね。
■■青森にある「キリストの墓」
八雲:面白い話があって、青森に「キリストの墓」というのがあるんですよ。一般的に考えると、これはどう考えてもニセモノですよね。でも、「キリストの墓」というのが実際にあるんですね、青森県戸来村に……。で、明らかに違うわけですよ、歴史的に考えても。でも、行くとちゃんと出てくるんです。
―― キリストが?
八雲:はい。面白いと思っているんです。ニセモノであることは明らかなんだけど、みんながきちんと守ってあげているとそこにサナンダ(イエス・キリスト)が出てくるんですよ。
―― え~っ!大事に祀って、それを信じて祀ってあげればそれが真実に近づいてくるのですね。ほんとうですか?
八雲:面白いですよ
―― それって、かけるエネルギーに見合って場所が育っていくという捉え方でいいのでしょうか。
八雲:そんな感じですよね。歴史的に観ればニセモノ、だけど僕ら的にいうと、ひとつの場として出来上がってきているんです。みんなが大事にすると、ちっちゃい神社でも良くなりますよ。
―― それを、私もすごく感じたんです。そこはほんとに小さい神社なんです。周りにはアパートやマンションや戸建住宅がどんどん出来てきているんですけど、元々の集落は60軒しかなかったらしいんです。私は新住民なんですが、地縁をこれから作っていくしかないなあとも思っているんですね。育てるという感覚をひとりひとりが持てば、そこがいい場所になるということなのでしょうね。
八雲:地方なんかに行って、小さな神社なんかを観てると、地元の人に大切にされているかどうかがわかりますよ。大事にされているところは、生きているんです。大事にされていないとそんなに強くないんです。もともと場のいい場所だったら放っておいても大丈夫なんですが、地元の小さな神社などはかならずしも場がいいとは限らないです。そういう場所だと地元の人が大切にしているかどうかでぜんぜん空気が変わりますよ。
―― そうすると、家とかにも同じことが言えますよね。慈(いつく)しんできれいに掃除をして、住んでいる人がいい関わりを持って行くとそれは必然的にいい場所になりますよね。外観とかではなく中身的にですが。居心地がいいとかですが。
八雲:なりますよ。更地でもいいところありますからね、ほんとにいい場所だったら。更地だったところのいい場所にみんな神社とか建てちゃってるから、逆にわかりにくくなっているんです。建物の観た目で入ってきちゃうから。
面白いのは、お寺を観ていると、お寺はもともといい場所に建てるという考え方が弱いんで、お寺は住職さんがちゃんとやっているかどうかで全然空気が変わりますよ。神社は場を借りて造るわけです、いい場所に対して。一方で、お寺は場を造るんです。行をする場所として。だからお寺ってすごく変わるんです。有名なお寺だけれども、これはやめようよというのもあるし、ちっちゃいけどすごいいいというのもあります。
―― 守っている人たちがどういう意識を持っているかとか、地元の人たちがどのように関わっているかというかがわかるわけですね。
八雲:そうです。
■■お寺と神社
―― 「寺で子供を遊ばせても、神社では遊ばせるな」という言い伝えがあると聞いたことがあるのですが。また、お寺の境内の木は材木業者が買い取るけれど、神社の木は買い取らないと、それくらい神社には独特の神聖があるということなんですが、その辺はいかがでしょうか。
八雲:う~んと、基本的にはそれは間違っている話です。ただし、ある特定の神社とかになればそういう風になるときもあります。一般論でいえば間違いです。ある特定の神社だったら、そういう風な話が出てくるときもあります。
―― 特定とは?
八雲:あまりそれ(の名前)を出しちゃうとまずいんですけど、たとえば、新宿区の中にある神社なんですが、私が入れない神社があるんですよ。そういうところには子供は確かに入れない方がいいなというのがありますよ。そこは行って気持ちがいいという人が稀なんです。目の前を通るのもいやだという人ばっかりなんですよ。そういう神社もあるんですよ。
―― 私も経験があります。若いころ、仕事の帰りに夕涼みで行った神社の「ご神木」のそばまで行ったら何かゾクゾクしたものを感じて、走り出たことがあります。しかし、そのとき何人かの人たちはそこに置かれたベンチに座って平気そうでした。
八雲:地元の人だとずっとそれに慣れちゃってて、かえって新鮮味がないから、わからなくなるときってありますよ。例えば、わかりやすい例で言うと、生まれ育った場所が鉄道の線路の横だったりすると、列車の音はぜんぜん気にならないですよね。それをよそから来た人だと、こんなところによく住んでるねと、そういう状態になるような場ってあります。
―― 見分けがつかなくなって、逆に平気という感じになるのですね。
ほんとは良くない場所にしても、そこに慣れ親しんでいるとその良くない部分が気にならなくなるというか、鈍化するというか、感性が埋もれていくということはありますね。
八雲:そういうことってありますね。そうなると、それは、先ほどの言い伝えの中にある「この時間の夜は来るな」ということも出てくるんですよ。何々やっちゃいけない、とか、ダメというのは、基本的に一般論なのか特定論なのかよく見ておかないとだめなんですよ。
―― さきほどの木の話なんですが、神社の木は業者が買わないということらしいんですが。
八雲:木に対する扱い方が違いますから。概念世界として、お寺はあくまでも人間が行をすることがベースになるんで、木があっても木があるだけなんですよ。神社の概念世界は、大きな木は神の拠り代なんですよ。そうすると木も変わってきます。概念をどちらの世界の概念で続けて行くかによってやっぱり変わります。
―― それもあくまで人がいて、人がその対象物にどういう捉え方をしていくかということが大事なのですね。
八雲:概念モデルという言い方をしているんですが、概念モデルを、たとえばキリスト教的概念モデルで生活すると、神は遠いものになるんですよ。神道的な概念モデルだと別にそれほど遠くはないんです。わりと身近になってくる。それをずっと続けて行くと、面白いもんで、向こう側もこっちに合わせてくるのです。神様は人間に合わせてものごとをやってくれるんですよ。なぜかというと、地球上では人間が主役だからです。神様が主役というわけじゃないから。神様も相手に合わせたことをやっていくので、そうするとやっぱり変わってきますよ。どういう概念をもっているかで変わってくるのですよ。先ほどの極端な話でいけば、「夜中に神社に行ってはいけない」と思っている人が行くと何か起きたりする。そんなことは関係ないと思っている人が行くと何も起きないんですよ。むしろ、夜の方がいいと思っている人には、夜に行くと、楽しいんですよ。
―― そのお話は日常生活の中でもありますよね。
たとえば、悪いことが起きるのではないかと恐れていると、そういうことが起きる確率が高くなるような、そんなことってありますよね。どう捉えるかって大事ですよね。
■■自分で引き寄せていくもの
八雲:たとえば、予言なんかの世界でも、首までその予言を信じていれば、そのときにそんなことが起きたりするんですよ。自分が引き寄せちゃうから、そのことを。
―― 「引き寄せの原理」が働くということですか。
八雲:たとえば、メディアで有名な占い師さんなんかが、「何々のときに何かやるとよくないことが起きる」とか言ってるんですけど、首まで浸かって信じていればそれは起きてくるんです。
―― 私が八雲さんにカウンセリングをしていただいたときに、今年は大殺界だと本に書いてあるのを読んだものですから、そのことをお訊ねしたときも、よいアドバイスをいただきました。細木さん自身が大殺界のときに、細木さんは本も書いている、何々もしていますよと事例をあげて下さったんです。そうしたら、ほんとに、まるで違うことが起きるんですね。大殺界らしからぬ好ましいことが。カウンセリングを受けないままに、それを信じていたら、今年は何もしないでひっそりと耐えて忍んで生きようとしていたと思います。
八雲:そういうもんなんですよ。
単行本などのメディアで、「細木さんの占いは外れる」ということを書いている人っています。でもね、外れる人にとっては外れるんですね。首まで浸かって信じている人にとっては当たるんです。こうなると、占いではなくてむしろ思い込みを作っていってあげている状態だと言った方がいいですね。だから当然、断定的に物事を言います。
■■ラップ音
―― ちょっとお話しは変わりますが、ラップ音についてお聞きしたいのですが。佐藤愛子さんの本の中にもラップ音というのがものすごく出てきますよね。私も一度だけラップ音というのを聞いたことがあるのですが。
八雲:ラップ音のどういうものについてですか。
―― 佐藤愛子さんの世界では、自分ひとりがそこに行くとラップ音がけたたましくパチパチパチパチとするけれど、自分以外の第三者が一緒にいるとその音は鎮まるとかそんな風なことが書かれています。ラップ音というのは魂というか霊というかそんなものが出している音なのかということなのですが。そういう単純なことですが。
八雲:ぼくの場合は、基本的に霊は呼ばないし、ラップ音を出すような状況を作らないんですけど、それでも、富士山のホームページを作っているときにそばで「バキッ」と言ったことがあるんですよ。それはたとえば、神様の方なんだけれども、自分がちゃんと存在しているということを表現するために鳴らしていることってあります。
―― それは何か悪さをするとか、霊的にSOSを出しているとかではなくて、存在を示すために鳴らすこともあるのだなということなのですか。
八雲:その時には、ああ、やっぱりそうなんだなという感じでした。ですから、ラップ音というのが悪い音とは限らないのです。実際に「ラップ音がする家なので観て下さい」と頼まれて、観に行ったことがあるのですね。観てもそこに別に悪いものがいるわけでもない状態でした。
ラップ音というよりも、私の場合、(霊的パワーで)同僚のノートパソコンを壊すのをやったことがあります。
人のパソコンですが。それってどういうことかというと、人間がラップ音的なものを呼び込んでくるときっていうのは、安定していないときですよ。ぼくもこちらの世界(スピリチュアル的な世界)に入りかかった時に、まだそんなに安定しているわけじゃないときに、隣りの人のパソコンが壊れちゃったということはありましたね。
―― よく、パワー、気の力が強すぎて、テレビや電子機器が次から次に壊れるということを聞くことがありますが、壊れるということは気の力が強いということではないのですか。自慢するべきものではないのでしょうか。
八雲:気が強いから、電球が飛んだり、家電製品が壊れたりということは確かにあります。それは逆にいえば、ちゃんとコントロールしていないから余計なところに飛んで行っちゃうんですよ。強い分だけ、ちゃんとコントロールをするようにしないと壊れちゃうんですよ。
―― コントロールする人というのは当事者ですか。強いからといってむやみに放っておくとそういう現象が起きるんですね。
八雲:当事者です。だから、自慢していいことではないですよ。壊すことが強いことにつながるというのは、その人が勘違いしているんですよ。安定してないという証拠なんですよ。逆に言うと、感情的に不安定な人が起きやすいんですよ。気が強くなってて感情的に不安定な人だと、ふっと行っちゃって壊れたりすることになりやすいんですよ。
―― 壊れるという事実はあるということなんですね。
八雲:それはあります。壊しているようではだめ。お金もかかるし。
―― 調整ができていないということの現われですね。
八雲:逆に気の強さの現れだと思っていると、そういう状態をますます自分が作っていくから、ますますそういうことが起きやすくもなるんですね。ここの部分はちょっと難しいので、また機会があれば詳しくお話ししたいと思います。
―― 人を助けたり救うという観点からみれば、まだまだの状態ということですね。
八雲:そんな状態でだれかにやったら、不安定なものが来るわけですよ。逆にいえば家電製品を壊すような気を送っているんですよ。いいことではないですよね。
―― 施療やカウンセリングを受けるときに、相手に感じる相性なども大切にした方がいいのでしょうか。
八雲:基本的にそういうことです。
―― 直感を個々人で磨いていくということも受け手の課題ですね。ヒーリング的にこの人とは合わないと思うときは深く関わらない方がいいのですね。周りの人が凄い凄いと言っていても、その周りの人の感度が正しいとは限りませんし。
八雲:わかりやすくいうと、レストランと同じですよ。みんなが美味しいと言ってても自分にとっては美味しいとはかぎらないです。だから、自分にとって一番いいものを見つけることが一番いいことだと思います。
■■グリーンフィンガー
―― グリーンフィンガー、緑の手ということも私たち一般人を取り巻くパワーの世界ではわりとよく聞く言葉ですが、たとえば「あなたはグリーンフィンガーを持った手の人ですね」とかですね。植物を上手に育てることのできる人のことを言うらしいのですが。
そのことについてもお聞かせ願いたいと思います。パワーが強すぎて花や植物を枯らす人がいると聞きますが、それはただ単に愛情を注いでないだけではないかなと思ったりするのですが。
八雲:植物に関しては、かならずしもそうは言えないです。身代りになってくれているということもあります。
こういう仕事をやっていたりいると、ぼくなんかもよく植物が枯れるんですよ。それは仕事で疲れて帰ってきたりすると、植物が疲れを吸い取ってくれることってあるんですよ。愛情を注いだら、注いだ分だけ植物がこちらの疲れを吸い取って行ってくれるというか、植物が枯れちゃうんですよ。たとえば巨樹だとか、大きな木などはそのダメージに負けないものをもっていますから、枯れるということは少ないですけど。ぼくも植物は何回かやっていてうまくいかないんですよ。たとえばバラの花とか花自体が強さを持っている花だと負けないですよ。だから植物にもよります。植物は判断が難しいです。相手は生きているものですから。
逆にたとえば神社の大木とか、あれくらいになれば、向こうも吸い取ってもぜんぜん枯れないんで。
―― そうすると、枯らすから愛情をかけていないんでしょという考えはちょっと違うかもしれませんね。
八雲:愛情をかけていないとはかぎらないですね。愛情をかけた分だけ、枯れやすくなる場合もあります。
■■手のひらに出る金粉
―― 金粉が出るということについてはどうでしょうか。手の平などに出てそれはこすっても洗っても消えないですね。
八雲:私の友人などにもよく出る人がいるのですが、このことに関してはよくわからないです。実際にそういう人がいることは確かなのですが。
ぼくの知っている人で金粉が出ていた時期があるんですよ。私自身は出ないです。あれはぼくもよくわからないです。
―― 出るときは、どういう状態なんでしょうか。波動が高くなっているとかは関係ありますか。
八雲:出る人は少ないですからねぇ。その少ない例で行くと、やっぱりその人の成長過程の中である時期は出ていたのですが、今は止まっているんですよ、その人は。その辺に何かあるのかなと思ったりします。
―― 実は、私も出るんですよ。出るときはどんなときかなと思ってみたりすると、今はやっていないですが、気功の後とか、自然の中に入って自分が満たされたときなど、観るとピカッと光ったりしているときがあります。
八雲:あんまり気にしない方がいいですね。出たからと言って何かあるわけでもないですし、金粉集めてということもできないし。
―― 状態がオーラの色も刻々変化していくように、その人の状態によって金粉の出方も違ってくるということでしょうか。
八雲:安定してくると逆に出なくなるという感じはします。
■■「結界」「レイライン」
―― もうお時間がなくなってしまいましたが、「結界を張る」ということや、そこから発想できるレイラインについてもお聞きしたいのですが、それは次回にお聞きするとして、さわりの部分だけでもお話していただけますか。レイラインについても関心がありますし、八雲さんのブログにもレイラインのことが書かれていますし。
八雲:基本的には、レイラインというのはあちこちにあります。ただしよく考えないといけないのは、たとえば紙の上にランダムに点を置いて行きまっすぐ線を引くと、そこに3つの点が当たるということは出てくるんですよ。この偶然の並びということもあり、それを本にして書いている人もいます。たとえば、東西に並んでいると言ってもズレがあったり、東西にきちんと並んでいるわけではなくて、ちょっと西側にあったりすると東西に並んでると言ってる人がいたり。
―― 大雑把にですね。
八雲:だから、そういう話とちゃんと調べている話がごっちゃになっているんです。今、ぼくが調べているやつは、南北のラインは2度以内の誤差ですよ。それが10度以内に入っていれば、並んでいると言っている人がいるんですよ。2度以内であるということと、ちゃんと全部に繋がりがあるものでないとぼくはレイラインとは言ってないです。偶然引けちゃう線っていっぱいあるんですよ。
あと、偶然三角形に並んでいるとかあるんですよ。そういうのを本にしている人がいるんですよ、結構。神社はみんな三角に並んでるとか……。ランダムにやってもこうやって描けるわけですから。
―― いっぱい建っていますから、結果としてはそういうことも出てきますよね。
一度、ブログに教会のカテドラルのことも書かれましたよね。
八雲:あれも、きちんとした角度で日の出の角度もお互い向き合っていて、ちゃんと皇居に入っていくとかいうこともあるから、書いたんですよ。ただちょっと並んでいるくらいだったら書かないですよ。しかもあれを全体解釈すると、結局マリアさんというのは日本の守護者なんですよ。歴史的に調べてもそうなっているし。あのラインから出てくる話をちゃんとまとめると、そういう話にちゃんとなっているんですよ。
―― マリア様は、海外のキリストの発祥の地のイメージがありますが。
八雲:マリア様は日本の守護者でもあるのです。ちゃんとそれは出てるんですよ。あの話をちゃんとまとめたら「ムー」に掲載しようとすれば出来るんですよ(笑)。
―― 今のお話を伺っていても、ほんとに確かなものというか、信頼できる情報とそうでないものも世の中にはあふれていますよね。それは自分の感性を上げてつかんでいくしかないのだと思いますが、不確かなものがまん延しているという事実もありますね。
八雲:「ムー」という雑誌が売れていることを思えば、わかりますよね。「ムー」もたまにいい記事はあるんですよ。大体まあ、いい加減なんだけど。
―― 八雲さんは、今後本を書かれるということはないんですか。
八雲:自分で書くのは今はあまり考えてないです。
ちょっとした依頼で書いてほしいということがまったく無くはないんですが。下手に書いて向こうで編集されるのもいやですし。ですから結局ブログに書いているんです。
ブログの記事を全部集めて編集し直すと、たぶん一冊本ができますよ。ただ、それをやるのも、いまちょっと時間がないんです。自分で書いていられないから、インタビューをしてもらうという時間を作ったというわけです。
―― ありがとうございました。お時間が来てしまいましたので、今回はこれで終わらせていただきます。
八雲:ありがとうございました。
コメント
八雲さま
いつも興味深く、楽しく、拝読させていただいております。ありがとうございます。
初めてのコメントなのに失礼とは思いますが、このインタヴュー内容に関して質問があります。もしほかの方の疑問解決にもなるようでしたらぜひお答えください。
私はヨーロッパ、カトリック圏に住んでおります。日本ではあちらこちらに神々がおり、土地を守っている感が強いのですが、キリスト教のような一神教では、八雲さんのおっしゃるとおり、神様ははるか遠くにいて人間の日常とはあまり関係ない感じがします。しかし、ヨーロッパにも土着の信仰があったはずですし、いろいろな精霊がその土地を守っていてもおかしくはありません。でも、その土地の人々の意識がないとその土地もパワーを失ってしまうということ、私の住んでいる地域も(ヨーロッパ全土?)そうなのではないかと心配になってきました。もちろんひとつの町に必ずひとつは教会があるわけですが、まるで丸裸で荒地に一人立っているような心もとない感じがします。ヨーロッパの土地のパワー事情など、よろしかったらお教えください。
ベルギー きりん
今回もとても興味深々で読みました。
自分の中で、気になっていたことを質問していただいたと思っています。
次のインタビューも楽しみなのですが、今回のインタビューに関して、もう少し突っ込んだ質問をしたいとか、自分はこんな経験があるなどの話はこのコメント欄で良いのでしょうか?
こんにちは。
聖地に関しては以前はそういうのが好きな友人がいたので、たまに一緒に回ったりしていました。友人1人だと何回行っても、途中で引き返してしまうようなところがあって、2人で行ったら、するするする~っと入り込んでしまい、後になって、とても怖いことをしたな、という思い出があります。
調査で南十勝をドライブしていたら、呼ばれているような感じがして、国道から外れた道に迷いこみ、何だかよくわからない霧がかった神秘的な山間にたどり着いたのですが、「何か呼んだ?」って聞いたら、「特に用はないんだけど、たまたま近くにいたから呼んでみただけよ」という風に聞こえました。その話を身近なスピリチュアルな人に話したら、「そんなの思いこみでしょ!」と大激怒された思い出があります。
さておき(長くなってすみません)、オカルト漫画・小説の読み過ぎかも知れませんが、土地の護りというのは、妖とか魔とかを封じるためにあるのですよね。新聞を見る限りでは、昨今、長年の恨み辛みとか怨念とか、人間関係のもつれがもつれにもつれてというよりかは、衝動的な事件が多いです。オカルト漫画的には、これって、妖とか魔とかの仕業なのでは、と思ったりするのですが、そういう時に専門の方(オカルト漫画的には美少女陰陽師)が調査に入ったりすることはあるのでしょうか?