最近わかったのが、私が何かを見ることができるのは、日天(にってん)・月天(がってん)が、私のガイドとして存在しているからだということです。ここで言う「天」は仏教の用語で、神を現しているので、日神・月神とも言えます。
日天・月天というのは、一般的には太陽・月を神格化したものという言い方になるのですが、それは正確な表現ではなく、この世界を構成する、「陽と陰の要素」であると言った方が正確です。日天・月天は、仏教とか神道といった枠組みを超えた存在であるので、仏教とか神道のどちらの何者という考え方は正確ではありません。そもそも、日天・月天(あるいは、陽と陰の要素)がまず存在していて、この宇宙が構成され、その後に、仏教とか神道が出てきたと言った方が正確です。なので、「陽と陰」の組み合わせというのは、世界中に存在する考え方になり、時としては光と影という意味に転化することもあります。
日天・月天は、空海が中国から伝わった「十天形」に感得した日天・月天を追加して、十二天として完成させたとも言われています。密教の十二天の中で人格的な表現がされていますが、そもそも人格神とか人格仏といった存在ではないので、像がつくられることもありませんし、表にもほとんど出ない存在です。一般向けに出るときは、太陽と月といった表現になって、本質は隠された状態です。
ということで、縁をより深くするために、高野山の奥の院に行ってきました。
空海は、奥の院で生きていると信じられており、そのため死去ではなく、入定と言われています。
実際に参拝してみると、弘法大師空海は確かに存在しており、いまでも活動しておられます。生きていると言ってもいいくらいです。
奥の院で、朝の勤行が行われているところにちょうど行ったのですが、その勤行の中で、日天・月天を二つの丸い円として感じ取ることができました。
その後、十二天の尊像の絵図を見たとき、絵図の方はかなり人格化した形で表現されてしまっているのですが、それでも感得した日天・月天さんという存在がそこには(人格化されている部分を排除するとよくわかる)ありました。どちらも丸い円という形で存在します。十二天の尊像で丸い円という形で表現されているのは、日天・月天だけで他の尊像は、それぞれが独自の表現になっています。