瞑想は、静的と動的に区分される

瞑想というと、ただ静かに座って行うものというイメージが強いのですが、瞑想を大別すると静的瞑想と動的瞑想の二つに区分されます。
静的瞑想は、座禅のようにただ静かに坐って行うものとして良く知られていますが、動的瞑想もあるということはあまり知られていません。
動的な瞑想というのは、単純な行為・操作をひたすら繰り返すというやり方が基本です。何も考えないで動作を繰り返すことで、その動作に集中することで無心な状態を作り出すというものです。
例えば、踊りが好きな人は、踊りをひたすら無心に続けることで独特の感覚を得ることがあったりするのですが、これも瞑想です。キリスト教の大きな教会には、歩く瞑想を実践するために、床に歩くための道を描いているところもあります。この場合も、歩くときには無心になることが大切です。
私の場合は、車で空いた高速道路をひたすら長距離走るというのが、瞑想になりますが、これは静的と動的の中間の瞑想になります。他にも、お経をひたすら唱え続けるとか、太鼓を無心で叩き続けるというのも、中間の瞑想法になります。
座禅のようなただ静かにじっとしているのが苦手な場合、動的瞑想が合っていることも多いです。

コメント

  1. 猫野 より:

    古い記事へのコメント失礼致します。
    瞑想とお経について疑問があり、質問するのに適した記事を探してこちらに辿り着きました。
    質問は受け付けていらっしゃらないようでしたらすみません。
    その場合は反応せず無視していただいて大丈夫です。

    2ヶ月以上前からある事情で「夜決まった時間内に大悲心陀羅尼を唱え、唱え終わったら聞きながら無心で蝋燭の炎を見つめる」ということを指示され、一応実行しています(詳しい事情をコメント欄で書くのは気が引けますので割愛させて下さい。この行為が瞑想にあたると考え、この記事にコメント致しました)。
    なぜ「一応」かというと「お経を聞きながら無心になる」ということがどうしてもできず、唱えるのも聞くのもどうしても自分に合わない気がして言われた通りの頻度ややり方でやっていないためです。
    写経(般若心経)もしたことがあるのですが、こちらも恐らく一般的にイメージする「無心に集中した状態」とは程遠い体験でした。
    私の場合お経を聞いていても写経をしていても、普段より物凄く沢山のことが頭に浮かび頭がフル回転してしまいます。写経は特に脳の隅から隅まで浮かんだことを端から総ざらいするような状態で非常に疲れます。

    瞑想というのはこういう頭がフル回転する状態ではないと思うのですが、私はお経と相性が悪いのでしょうか?お経と人間に相性があるのでしょうか?
    そうだとしたら何かを改善すれば大悲心陀羅尼で無心になれることもあるのでしょうか?

    指示をいただいた方に「無心になれずに普段以上に考え事をしてしまう」と伝えてみたところ、無心になれるコツを教えられました。しかし実践してみても上手く行きませんでした。再度しつこくできないと伝えるのが気が引けますので、何か上手く出来る方法がないか知りたいのです。
    ですがどうやって調べればそれがわかるのかもわからず、ご迷惑かと思いながらこちらに質問させていただきました。

    長々と申し訳ありません。
    コメント欄で図々しい質問かと思いますが、もしコメントにお気付きの上、ご回答可能なようでしたらお返事いただけますと幸いです。

  2. 八雲 より:

    > 猫野さん

    コメントに書かれた内容を見てみると、指導している方は静かに座るといった静的瞑想によって何かを得た人のように思えます。指導者というのは自分自身が辿って来た道こそが重要であるという思い込みを持っていることが多いです。

    静的瞑想は基本の一つではありますが、この世界は二元性が特徴ですから、表があれば裏もあります。
    表を静的瞑想とするなら、裏には動的瞑想が存在します。これはどちらか一方だけが重要であるということではなく、表が存在するには裏を必要とします。禅の世界では、動的な瞑想を作務と言うこともあります。

    私自身の経験では、ヴィパッサナー瞑想を京都奥地で10日間参加したことがありますが、これは静的な瞑想になります。
    一方で、ヴィパッサナー瞑想の為に京都の奥地に行く高速道路の道すがらでは、長時間運転すると無心になるという経験もあり、こちらは一種の動的瞑想になります。

    瞑想というのは、一種の思考停止状態であり、頭(思考)がフル回転するというのは、瞑想ではありません。
    お経との相性ということを考える前に、自分はどんな時に無心になれるのかを振返る必要があります。

    大きく分けると、静かに座っている時に無心になれる人すなわち静的瞑想が合っている人と、何かを一生懸命行っている時に無心になれるという動的瞑想が合っている人の二つに分かれます。

    ダンサーという仕事をしている人たちは、明らかに後者の方になります。
    ダンサーに静かに座っていろと命令したところで、ダンサーとしての在り方とは静かに座っていることではないので、そのやり方では得るものはあまり大きくありません。
    逆に踊っている時には、様々な気付きや理解があり、彼らにとっては踊ることが瞑想そのものになります。

    静的とか動的とか、どちらが正しいのかを思考すると逆に判らなくなってしまうことが良くあります。
    思考ではなく、経験を素直に振返ってみると、自分に適した瞑想が静的なのか動的なのかが判ってきます。

    よき指導者は、瞑想が静的であっても動的であっても、どちらも認めます。
    どちらか一方しか教えられない/認められないというのは、指導者として幅が狭いのではないかと思っています。

    動的瞑想(ひたすら歩く、ただただ一つの作業や動作を繰り返す など)を行うと、無心になれる人は静的瞑想より多いです。
    なので、動的瞑想を入口として、静的瞑想に辿りつくという感覚を持ち続くとやがて両方の瞑想を使うことができるようになります。

  3. 猫野 より:

    お忙しい中ご回答ありがとうございます。
    始めから大悲心陀羅尼を指定されての指示でしたので、お経自体に意味があるのかと考えておりました。
    相手の意図はともかく私にあった方法かどうかを優先すべきなんですね。
    現時点では自分が無心になれる状況というのがさっぱり浮かばないのですが、とりあえずお経から離れて考えてみます。
    指導してくださる方からどうやら期待されているのを感じるのですが、私が特に何も見えず感じられず、指示通りのことをしても何も変化がないので、少々途方に暮れておりました。
    今回別のアプローチもあると教えていただいたことで多少柔軟考えられそうです。
    本当に助かりました。ありがとうございました。

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