私という存在が、自分自身の外側に見えているものは、なんでしょうか?
そこにあるのは、自分以外の何者かであるように見えるのですが、見るという行為は、自分自身の信念や世界観を投影するということですから、それは、自分を通じて、外界を見ることで、自分という存在を知るために行われています。
つまり、自分を知るという目的のために行われているのです。
そして、自分を知るためには、自分以外の外界がリアルであるように見える必要があります。
リアルであるために必要なのは、自分の思い通りではないということです。全てが、自分の思い通りに見えていたら、それらは自分自身の投影でしかないことに、すぐに気が付いてしまい、自分という存在を知るための仕組みとしては、不十分になってしまいます。
自分の思い通りにならないものがあれば、そこにあるのは自分ではない何者かであるように見えてきます。つまり、外界をリアルな現実として感じられるようになります。
そういう仕組みの中で、私たちは外界を見ているわけです。
自分の思い通りにならないというのは、自分の思いから出来上がったものですから、やはりこれも、自分自身の投影であるということです。
つまり、「私が見ているのは、私である」ということです。
他の表現として、「他人は自分の鏡である」というものがありますが、これも「私が見ているのは、私である」と同じ意味です。
自分の思い通りにならない、何かが存在するとき、そこに自分とは異なる、何か別の存在ではありません。自分自身から発した、自分というものを異なった角度から見ているということです。
ですから、自分が出会合う人は、全て自分の一側面であるということです。
そして、自分が出会う人を嫌いになるということは、自分自身を嫌うということに、実は直接的につながってしまうことになります。
ですから、真に自分を好きになるために必要なことは、出会う全ての人である、ある側面の自分を嫌いにならないことです。
スピリチュアルな道を進む人達のために、「全ての人と和解せよ」という言葉がありますが、これは、自分自身がスピリチュアルな道を進むときに、全ての人を好きになる必要はないですが、嫌いにもならないこと、つまり中道的な和解という立場に立つということが必要です。
そして、これが完全にできると、自動的に全ての人が好きになってしまいますから、自然と敵は存在しなくなります。敵がいないというのは、とても安らかな境地です。
コメント
初めまして、この記事のようなことを考えていて恐ろしくなり何か違う答えを探していて偶然ここを見つけました。他にも分離と統合、悟りの後の混乱など、自分が瞑想をして感じた事に近い事を書かれていて
大変興味深く拝見させていただきました。
> yossyさん
この記事に書いていることは、本来恐ろしいことでもなんでもないことです。
それを恐ろしく感じるというのは、理解が十分でない時に起きることです。
恐ろしさそのものではなく、なぜ恐ろしく感じるのか、その点を見つめていくと次の段階に進むことができます。