日本の神々の神名には、アマテラスとかスサノオなど様々なものがありますが、それはあくまでも人間から呼びやすい名前として付けられたものであり、神の本来の名前ではありません。
スサノオさんと話をしていて、根源的な名前を聞いたら、音を示してくれました。
あくまでも音なのでそれをそのまま文字には出来ないのですが、一番近いものだと「ス」になります。
「ス」と言えば、出口王仁三郎(*1)は、宇宙の本源の神を「主(ス)の神」と呼んでいます。出口王仁三郎以外にも、「スの神」という呼び方をしている所はいくつかあります。
神様といっても個別の姿もあればすべての神が一体となった大元の根源的な姿もあり、今回教えてくれたのは根源的な姿での日本の神ということになります。
根源的な世界では文字は無く、バイブレーションのみが存在します。それを私たち人間が聞くと「音」として聞こえてきます。
「スの神」というのは、日本神道文化における神々の根源的な名前になっており、他の仏教やギリシャ神話などになるとまた異なった「音」として聞こえてくると思います。
(*1)
出口 王仁三郎(でぐち おにさぶろう、は「大本教」の教祖の一人で、明治から昭和の時代の霊的な巨人です。簡単に紹介を書ける人ではないので、ウィキペディアをリンクしておきます。
なお、ウィキペディアは誰でも(素人でも)編集できるネット上フリー百科事典なので、まったくのデタラメが書いてあるのが放置されていることもあり、全てが正しいとは限らない点に注意してください。
ウィキペディア > 出口王仁三郎
https://ja.wikipedia.org/wiki/出口王仁三郎
コメント
こんばんは
先生の今回のお話とは真逆なのですが、現人神としての存在は日本の神にとっては現在の立ち位置からすると、その歴史や人格などは無意味なものなのでしょうか?
と、いうのも私自身、とある神の系譜を辿って神社を巡った時に、出発前に行った方が良い神社にあたりはつけていても現地で、その神達の系譜を辿るために必要な情報や場所が思いがけず集まって最終的に、予想していなかった答え、ゴールの神社で旅が終わりました。
そして旅が終わったと実感した後は急に体調や、交通の兼ね合いで、どこの神社(観光)もできなくなって。
そうなった時に、個としての神は自分を知って欲しいのかもしれない、先生の言う真実の名前の方ではなく歴史の中で埋もれた自分の名前を教えたいのかな?と、思いました。
これは私が先生と神を見ている位置(高さ)が違うだけなのでしょうか?
> ぽん さん
まず最初に、広い視点から見れば、何かが存在するということは、まず存在そのものに意味があり、存在が行ったことにも意味があります。
無意味な存在というのは、現れることができません。
私自身も、神社に呼ばれて行ったら、予想していなかった答えやゴールになるというのはよくあることです。
人間の小さい頭は、神様の無限な思考空間を超えることはできません。
神の世界は、全ての存在である他の神を認識できるので、自分を知ってほしいというのは神の世界にはありません。
ただし、人間の方は全ての神を認識できるわけではないので、人間の方に知ってもらいたいということが出てくることはありますが、その頻度はごく少ないです。
人間から神様を見上げるという視点から見ると、見えないものが色々と出てきます。
人間も根源の姿は、同じく神であるという、神と人が同じ存在であるという視点から見ると、色々と見えてくるものが出てきます。
ただし、その視点から見ると、世の中で常識であると思われていることが、実は単なる思い込みに過ぎないということが良く出てきます。
良く出てくるのが、「この世界は魂を磨く場である」というものですが、人が元は神ですから、神の魂を持っているので、磨く必要はありません。
この発想は、人間は不完全であるというところから出てきたもので、人間と神を全く別物として扱った時に出てくる発想です。
他にも色々とあるのですが、神の座の視点で全体像が書かれた本というのは私はまだ見つけることができていません。
いずれにせと、神様を見る時の視点がどこにあるのか?
人間側から見ているのか、神の座から見ているのか、
その違いで見えてくるものは違ってきます。