三つのスピリチュアル
スピリチュアルの道を進んでいくと、同じスピリチュアルと表現されていることでも、三つの全く異なるスピリチュアルがあることに気が付きます。
三つはそれぞれ全く異なる性質を持っているのですが、いずれもスピリチュアルという表現がなされるため、誤解が起きることもあります。
スピリチュアルな道を進んでいく時の順番に沿って説明します。
(1)情報のスピリチュアル
本を読んだり、スピリチュアルな情報番組を見たりすることで、スピリチュアルな情報を手に入れる状態です。ここでは、自分以外のスピリチュアルな人からの情報を手に入れることを行うだけなので、その人自身がスピリチュアルな人であるとは限りません。スピリチュアル以外のファッションやフードの情報と同じレベルで扱われます。女性週刊誌では時々スピリチュアルや占いなどの特集が組まれたりしますが、そういった情報としてのスピリチュアルになります。
ここでは、自分自身の内面的な探究が本格的に行われることはなく、スピリチュアルは他の情報と同じように、時代の中で消費されるだけなので、情報を得た人の内面が大きく変化することはありません。
(2)探究のスピリチュアル
スピリチュアルな情報に接することで、自分の中で、考え方や世界の見方が変化していくことで、内面的変化が起きる状態です。人の生きる理由や、起きた事柄の解釈や意味など、自分自身をより深く理解するために、様々なスピリチュアルな方法があり、それを人は、それぞれに合った深さまで探究していくことになります。
なので、スピリチュアルは単なる情報ではなく、生き方を選択したり、変えるためにあります。
ここまでの、(1)と(2)では、二元論的なスピリチュアルであり、「私」と「対象」(対象は、人であったり、神であったり、物であったりする)に分離されており、私たちが生まれ育った時の身体感覚のそのままなのですが、次の(3)のスピリチュアルは、様相が全く異なるものになります。
(3)一元のスピリチュアル
これ以前のスピリチュアルでは、私とあなたは別人であるという分離世界のスピリチュアルですが、ここでは全ては一元になる。つまり全ては一つであるということが真理であるという立場に変わります。
よくワンネスという言い方がなされますが、それを言っている大部分の人の内面は、分離感覚の方が支配的であり言葉としてワンネスを語っていても、思考や行動は分離的でいるのが普通です。
真に一元であるということは、「あなたが見ている世界」も「あなた自身」も「幻想である」ということを根底から受け入れるということです。そして、この幻想こそが現実であるという事に気が付くことです。
しかし、これは分離的な世界観や観念が支配的であれば、到底受け入れがたいことです。
そのため、一元のスピリチュアルを受け入れる時には、パラダイム転換が起きなければならないということであり、(1)や(2)で学んだことを一度捨てることが必要になります。
そして、一度でパラダイム転換が完了することは、ほとんどまれで、分離と一元の間を行ったり来たりという安定しない状態をしばらく過ごすことになります。そして、やがて安定して、一元のスピリチュアルを完全に受け入れた時が真の悟りの時になります。
コメント
一元のスピリチュアルは到底受け入れがたいということですが、探究のスピリチュアルで得た期待を裏切られるということなのでしょうか?
現代物理学をかじっている者なら、この世界(物質)は隙間(空間)だらけのエネルギー(質量)の塊であることが確かめられているので、この現実がスクリーンに映し出されている如しの幻想であると理解できると思います。そのスクリーンは安定しているので「私と対象物」と錯覚してしまっているのでしょう。
今現在、ワンネスを理解のため般若心経で語っている空を学んでいるところですが、そのため探究のスピリチュアル捨てるというのは、神々との交流をやらなくなる事なのでしょうか。それではさみしい感覚があります。
ワンネスは頭では理解していても体験は違うと言うのなら、怖いけれど早く体験したいものです。
> えいじさん
裏切られるではなくて、一度捨てないと理解が出来ないということです。
しかも、現代物理学の概念では理解できない世界になります。
悟った後も、人と交流できるように、神々との交流は、したいのならその後もすることは可能です。
一元を体験する時は、二元性の頭が想像するイメージを超えたものになります。