ラマナ・マハルシの『私は誰か?』(リンク)は、読み物ではありません。
読んで理解するのではなく、読んで実践することが大切です。
実践とは、自分の外に向いていた意識を自分の内側に向けるということです。それを行っていると、三つの異なる『我』を見つけることができます。
最初に見つけられるのは「自我」です。
これは、誰もが持っているもので、自分の肉体の中に精神が宿っており、この肉体と精神が私であるという思い込みを創り上げるのが自我です。
この自我をじっと内観する目で見つめていると、ふとそれを見詰めている「私」に気が付きます。自我を見つめているのですから、それは自我ではありません。それ以外の何かです。
その私には、境界もなければ、肉体的な分離もなく、ただそれが一つだけ存在します。
その私は「個我」と呼ばれます。
人が他の人との一体感を感じている時、それは個我を感じているということです。これをワンネスと言うこともあります。
そして、個我をじっと見つめていると、さらにそれを見つめている何かに気が付きます。
それは、目で見るのではなく、ハートで感じます。
そこには、境界もなければ、個別の何かでもなく、全てであり、その全てとは愛であることに気が付きます。
それは、ラマナ・マハルシの表現では「真我」と呼ばれます。また、空、源泉、存在など様々な言葉で表現されますが、そこに分離的な実態はなく、個的な存在でもなく、名前を付ける対象もなければ、名前を付ける存在もありません。
そして、これこそが全ての源です。
私という存在は、真我なのです。それは、永遠の存在です。
あなたという肉体が生まれる前から存在し、肉体が死んでも存在します。
あなたが、心配・不安・恐怖を感じるのは、自我であって真我ではありません。
真我は、永遠の安寧であり、何の心配も不安も恐怖もありません。
そして、永遠の叡智がそこにはあります。
実践することで、最初はごく短い時間ですが、真我を感じられます。
しかし、すぐに自我に舞い戻ってしまうことで、心配・不安・恐怖を感じるようになります。
これは、私たちが生まれてきた時に作られた肉体的な体験をするための仕組みなので、そうなるようになっています。自我に舞い戻ってしまうことは、自然に起きることです。
ですから、真我に留まれるように、日々の実践(修行と言われることもある)が必要なのです。
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