ノンデュアリティにおいて、「私は居ない」とか「私は在る」とか言われます。
「私は居ない」と「私は在る」は正反対の事を言っているように見えます。しかし、悟りの立場から見れば実は同じことなのですが、悟りに向かう途中の立ち位置の違いで異なる表現になるだけです。この事について、図を使って説明してみます。
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まず最初は、一般的に見られる人の意識から。
私とは、肉体であり自我(精神活動)である。私は、他の存在からは切り離された存在である。
というのが、一般的な認識です。
この状態では、私の源である、源泉(あるいは、真我、神、大いなる存在、意識などと呼ばれる)からは、切り離されていると思い込んでいます。
実際には針の先ほどの細い線で繋がっているのですがそれに気が付く人は非常に少ないです。イエスが言うところの、「いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見出す者はまれである。」がそれです。
ここでは、私というのは常に肉体・自我と結びついており、自我の活動つまり、精神活動が私が居るとか居ないということを決めているだけです。
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次に、ノンデュアリティの道を、意識的にせよ無意識的にせよ、ある程度進んでいる人の意識。
この場合、私が二種類存在する(私1、私2)のですが、二つの私が同時に機能することはなく、いずれか一方の私のみが機能します。
私とは、肉体であり自我であると認識している時は、私1だけが機能し、私2は機能していません。ただし、全ては一つである(源泉など)ということを知識的に知っているので、私2が機能している時だけ、大きな存在である源泉などを感覚的に感じることができます。
ノンデュアリティの道を、意識的に進んでいる場合は、私1と私2が存在することを知識的に知ることから入り、そして、悟りの一瞥体験をするか、あるいは一瞥が無くても、理解が深まるとこの状態になります。
この時は、意識の主体が私1と私2の間を行ったり来たりを繰り返すということが起きます。
私2が機能した時に、私という存在とは私1であると思っていると、「私は居ない」という感覚を持つようになります。そして、私1と私2が行ったり来たりするために、自分の状態をうまく把握できなくなることもあります。これが悟りに向かう時に起きる混乱ですが、この混乱は次のステップに進めば消失します。
一方で、ノンデュアリティの道を、無意識的に進んでいる代表的な例が、アーチストやスポーツ選手です。彼らは、無意識的にこの二つの私(私1、私2)を知っており、創作やプレイなどにおいては、私1と私2が自動的に切り替わります。
彼らは、日常生活においては、私1が機能するのですが、創作活動や試合になると、私1は休止し、私2が機能します。その時によく言われるのが、「私が居ない」とか「それは私ではない」という言葉です。彼らが言う私とは、常に私1のことであり、私1が休止し私2が機能した時には、創作や良いプレイが出来ています。それを時には、「無心で行う」と言うこともあります。
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そして、ノンデュアリティの道をさらに進むと、私1と私2で行ったり来たりしていた私が、私2に定着します。ここでは、「私は在る」になります。
私とは、源泉(あるいは、真我、神、大いなる存在、意識などと呼ばれる)であり、それ以外の何物でもありません。個別の自我は消失し、そして肉体を私と見なすことも無くなり、源泉が「私」であるので、肉体を私と見なしていた時の「私は居ない」は消失し、「私は在る」だけが残ります。
そして、源泉である私が、意識としての私になり、肉体や精神を通じて活動や表現を行います。この場合の活動や表現の現れ方としては、個人というものがまだ存在しているかのように振る舞うことがあるので、多くの人に「私は在るとは、個人的な意識」であるという勘違いが起きます。
ここで言う私とは、個人の私ではありません。
全体性でありワンネスの私です。
なので、この意識に達した人は、「この世界の全ては、私が創り出している」という言葉を、個別である肉体から発することになります。
ノンデュアリティを理解していない人から見れば、まったく理解不能で矛盾しているように聞こえますが、ノンデュアリティから見れば、何の矛盾もありません。
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