人生において、「あるがままを受け止めるのは難しい」という話を聞いたり見たりします。
それは、難しいのではなく、熟練した結果であるということを知るのが、受け止められるようになる最初の一歩です。
私たちが、幼子の頃、「あるがままを受け止める」しかできません。受け止めるのが難しいという想いすらありません。つまり、私たちは、「あるがままを受け止める」というのが、元の自然な姿なのです。
幼子が成長する時に、物事には意味づけがあるということを親から教わります。
意味付けというのは、「良いこと/悪いこと」です。やって良い事と悪いことの区別を教えられます。
これは、肉体的な体験をする上では必要なことなので、親は子に教えて行くわけです。
やって良い事と悪いことの区別に「熟練」するように、繰り返し教えられるわけです。
そして、大人になって行きます。
自然な姿というのは、「ありのままを受け止める」だったのに、やがて出来事に対して全て良し悪しを付けてしまうことに熟練し、自動的に意味づけしてしまうようになります。
そうして、自動的に意味づけをしてしまうことが日常になってしまった結果、「あるがままを受け止めるのは難しい」という想いに行きついてしまうわけです。
人間の元の自然な姿というのは「あるがままを受け止める」であるということ想い出すことが必要です。
良い・悪いという意味付けは、自分が勝手にやっているだけでしかありません。
出来事は本来、意味づけもなく、良いも悪いもなく、ニュートラル(中立)なのです。
出来事が起きても、そこに意味づけをする人が居なければ、それはニュートラルなままです。
出来事による想いを順番に書くと、こんな感じです。
[出来事]→(中立)→[意味づけ]→(良い・悪い)→[想い]
出来事そのものを見ているつもりが、自分が創り上げた想いを見ているので、難しいという考え方に至っているわけです。
同じ出来事でも、人によって捉え方が異なるのは、自分が付けている「意味づけ」が異なるからです。
意味づけを変えると、悪いことも良いことに反転したり、
意味づけを辞めると、中立になったり、
するわけです。
これが出来るようになるための最初一歩は、
「あるがままを受け止めるのは難しい」と思わず、
「ありのままを受け止めるのが自然な姿だった」と思うことです。
そして、自分が変われば、意味づけが変わり、
意味づけが変われば、苦しみは苦しみではなくなります。
コメント
八雲さま
当たり前のことなのでしょうが、言われるまでまったく気付きませんでした。
確かに、こどもをみていると、いろいろな出来事が起こっても(同じ家庭内なので彼女にとっても影響を与える事態なはずですが)、それが彼女たちにとっていいか悪いかなんて判断せずにただそのまま受け止めているようにみえます。
私はいつからこのように、いちいちすべてのことに対して、その事柄が私にとってどうなのかを意味付けするようになったのかなあ。。
出来事だけをみようとしても、どうしてもまだ自分の想いがみえてしまいます。
もともとは、「ありのままをみるのが自然だった」と思う訓練(?)をしてみます。
ありがとうございました!