人の能力というのは、自分のものなのか、それとも生きている間だけの天からの借り物なのかを考えているところです。
そもそも、肉体というものは、我々が生きている間にのみ存在するものであり、生まれてくる瞬間には「自分(あるいは自我)」という意識がまだありません。そういう意味では、肉体というのは自分のものではなく、生きている間に天から借りているものであるとも言えます。そしてその肉体を使って発揮する能力というものも、そこから考えて行くなら、自分のものではなく、借り物と言う事ができるかと思います。
それに対して、自分は努力して現在の能力を身に着けたのだから自分のものである、という反論もあると思いますが、その努力をすることができたのは、肉体という借り物があるからできたものであり、そう考えると、やはり能力というのは、肉体とともに、生きている間だけの天からの借り物であるということになります。
では、能力と言うのは何か?それは、我々が肉体を持って多様な体験するための道具(ツール)であるということです。多様な体験が中心課題ですから、能力が高いことにも価値がありますが、その反対の能力が低いことにも価値があります。高さ低さと価値の間に比例関係はなく、価値があるということそのものが絶対的です。(ここで言っている価値とは、経済的な価値ではなく、存在としての価値です)
これは、努力して能力を上げることにも価値があるということを言っています。つまり低い状態から、高い状態になるというプロセスは多様な経験の一つとしてとても価値があります。
もう一方で、アン・ラーニングという考え方もあります。これは、変化が激しい時代においては、かつての知識・能力が役に立たなくなるということが起きます。この場合はかつての高い能力を忘れて(アン・ラーニング)新たに、能力の低い状態から学習しなおすことで、時代に対応するという考え方で、こちらは高い状態からあえて低い状態を作り出すということですから、やはり能力の高さ低さが価値ではなく、能力という存在そのものに価値があります。
能力というのが、そもそも自分のものではなく、天からの借り物であるならば、自分の能力とそれが生み出した結果を自分だけが独占するのではなく、より多くの人の役に立つことに使っていくのが一番大切なことではないかと思います。
(参考)
内田樹の研究室
格差と若者の非活動性について
http://blog.tatsuru.com/2011/10/18_1255.php
コメント
昔から「私が」の働き方をする人たちに違和感を感じていました。
「人のために」と視点を変えた方が仕事そのものがうまく流れます。
また、仕事を進める上で、
あえて今までの自分の経験、スキル、やり方をとっぱらってしまう。
いったんゼロに戻して考え直していく方がうまく行くことが意外に多いです。
どちらにしてもある意味「自分」というものを取り払うことで、
自然な自分の個性がかえって出てくる。
そこにスペシャリティが成立すれば、
社会で自分を活かすことになるのではと思います。