ノンデュアリティという立場から、スピリチュアルを楽しむ

10月15日に日枝神社で受取った言葉にならないメッセージについて、自分なりに理解が進んできたので、その理解について書いてみます。

ノンデュアリティの立場から見れば、私たちが生きているこの世界は現実ではなく、源泉の中に映し出された映像と五感であり、そこには実体がないということです。これを般若心経の一節では、「色即是空 空即是色」と表現しており、これを読み下せば、「分離の立場から見れば、この世界は実体(色)があるように見えるが、悟りの立場から見れば、空というものが実体に見えているだけである」ということになります。

つまり、この世界は現実に見えているものが、実際には幻想であるということです。その幻想に意味があるのか?

ここで、少し違う角度からこのことを見てみることにします。

日本の歌舞伎では、男が女を演じます。女ではない者が女を演じるのは、海外から見れば少し奇妙な世界です。そして宝塚歌劇団では、出演者は全て女であり、女が男を演じることになります。そこに違和感があるのかというと、見慣れてしまえばなんの違和感も無くなってしまいます。
そして、そこで演じられるストーリーは、あくまでも演じられるものであって、劇場の中だけに存在する架空の世界です。この架空の世界を演じているのを私たちは楽しんで観ているわけです。そして演者も架空の世界を演じることを楽しんでいます。
これが、映画になると架空の世界を構築する為の舞台装置も演じる人達もさらに大掛かりになって行きます。

私たちは、この劇や映画の演者であるということです。それが現実なのか幻想なのかを問うのではなく、演じることを楽しむことが大切であるということです。
私たちが生きているこの世界では、源泉の中に映し出された幻想をそのまま楽しむことが私たちが肉体という姿を持っていることの理由です。

スピリチュアルも、ノンデュアリティの立場から見れば、物質世界と同じ幻想であり、特別な何かではありません。それに気づいた時、私はかなりの喪失感を抱いていました。これまでやって来たことが幻想であると・・・

そして、その後気付いたのは、例外なく全てが幻想であれば、全ては現実であり、私たちは、その幻想という現実を楽しむことが出来るということです。

ノンデュアリティという立場を歩みながら、スピリチュアルという幻想の現実を楽しむことが出来るということに気づいたということです。

そして大切なのは、砂場でお城を作って遊んでいた子供が、夕食の時間が来たらなんの執着もなく砂場のお城を置いて家に帰って行くように、スピリチュアルを楽しんでいたとしても、それに執着しないということです。

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日枝神社で受取ったメッセージ
https://en-light.net/archives/8654

コメント

  1. 青龍桜子 より:

    凄くよくわかります。分かりやすい説明をありがとうございます。

  2. yakumo より:

    > 青龍桜子 さん

    はじめのうちは、ノンデュアリティに意識が向いているので、両者のバランスを取ることが難しいのですが、落ち着いてくるとバランスがとれるようになりますね。