冬至を控えて、心が揺れている人もいるかと思います。
心の揺れの中で、もっとも自分自身に対して破壊的なのが、「怒り」の感情です。
「怒り」という感情がどうして起きるのかを書いてみたいと思います。ただし、文字という限られた表現手段では、全ての状況を説明することができないという限界もありますので、ここでは、怒りという感情が起きる様々なパターンのうちから、代表的なパターンを、わかりやすく説明してみたいと思います。
◇怒りは、人間関係から
「怒り」という感情は、「怒り=人間関係」と言ってもいいくらい、ほとんどの場合、人間関係の中で起きます。
たとえば、空から水が落ちてきた場合、自然現象であれば、怒る人はほとんどいないのですが、その水が誰かがバケツを使ってかけたものとなると、怒る人が非常に増えます。水が落ちてきたという事実は同じでも、原因が人間に起因すると、人はよく怒ります。
「怒り」という感情は、「喜び」や「平静」という感情の逆になっていることがよくあります。
ところが、この「怒り」と「喜び」という正反対の感情に共通するものがあります。
◇期待が感情を作る
そこにあるのは「期待」、あるいは「価値観」と言ってもいいのですが、期待通りなら「喜び」か「平静」になり、期待通りでないなら「怒り」になります。
さきほどの水の例えでは、「人は、バケツで人に水を掛けてはいけない」という暗黙の期待が存在しているのですが、状況がその期待通りではないので、怒りの感情が起きるわけです。
◇怒りの原因は、自分自身が持っている
この「期待」を作り上げているのは、様々な内的・外的な要素がありますが、「期待」を作り上げ、維持し、保持し続けているのは、自分自身以外にはありません。
つまり、怒りの原因は、相手にあるのではなく、自分自身が持っているということです。
◇期待に気が付いていない
この「期待」については、普通は気が付いていません。これに気が付くには、自分自身の内面をよく見つめていく必要があるのですが、大抵の人はそういった取組が重要であるとは思っていませんから、何が「期待」なのか、気が付いていません。
そのため、自分自身の目の前に起きた状況に、いきなり感情的な反応が現れるということになります。
つまり、状況が、自分自身が見えない所に持っている「期待」が反応して、「怒り」という感情が湧き上がってくるわけです。
この「期待」が変われば、同じシチュエーションでも、「怒り」が発生しなくなります。
よく怒っている人を見ていると、その人が持っている「期待の幅」が非常に狭いことに気が付きます。
「期待」が狭いわけですから、それから外れた状況にしょっちゅう出くわして、しょっちゅう怒ることになります。
その逆に、めったに怒らない人の場合は、「期待の幅」が広いので、少々の状況では感情的になりません。幅が広いというのは、「人間には、色々な人がいて、(思いもつかない)色々なことをする」という考え方になります。そういった考え方で人を見ていると、怒ることがずっと少なくなります。
◇期待の幅は変化する
この「期待の幅」というのは、かならずしも一定ではなく、肉体的に疲れていたり、時間的に切羽詰ってきたり、ストレスが溜まった状態になると、狭くなります。
冬至前後のこの時期は、心が揺れるというストレスが加わった状態になるので、「期待の幅」が狭くなり、ちょっとしたこと・ささいなことでも怒ることが起きるようになります。
そうなって、感情の渦に巻き込まれると、さらにストレスが加わるので、正常な判断すらできず、人が言った一言(キーワード)だけに反応して、文脈を読むことが跳んでしまうということも起きます。
◇怒りに出くわしたら
相手の人が、普段と違って、一言(キーワード)だけに反応している状況に出くわしたら、相手の人の「期待の幅」が狭くなっている状況であるということです。
そうなると、かなり感情的になっているので、そういう場合は、同じ話題を続けても感情的な状況が変わらないので、違う理性的な話題に切り替えていくというのが、対処の基本になります。
また、自分自身がそういう状況に陥った場合は、一度水を飲んだり深呼吸したりして、感情の流れを一度沈めたり、違う話題に切り替えていくことが、良い対処になります。
◇期待に気が付けば成長できる
「怒りの源は、相手ではなく、自分自身にある」という意識を持っておくことが大切です。
そうして、感情を起こす「期待」が何なのかに気が付くと、「期待を変える」ことができるようになります。
そうして、自分を変えて行くことが出来るようになり、冷静な判断を下すことができるようになり、人間関係を向上させ、成長することができるようになります。
コメント
今年も楽しく、刺激を受けながらブログを読ませていただきました。
自分の怒りについて、少々悩んでいました。
学生の頃、全く怒らない人と出会い、怒らずして生きていけることを
目の当たりにし影響を受けましたが、社会に出ると同時に元にもどっていってしまい、どうしていいのかわからずにいました。怒ると、確かに辛いのは自分です。
怒りと喜びの間にある期待、納得です。これから少し、生きやすくなれたらいいなと思います。
スピリチュアルを学ぶにつれ、人の事は全部理解できないこと、人と自分は違うことがわかってきましたが、この記事を読んで確信した次第です。スピリチュアルは生き方の本質を理解していく、人間学をやっているような感じがします。
もう少しで来年ですが、お身体に気を付けてどうぞ良いお年をお迎えください。
例えば、善意で道の掃除をしている時、邪魔だといってバケツの水をかけられたらふつうは怒りが出てきますよね。その状態を「期待」という視点で考えたら、たしかにわかりやすく読ませていただきました。
最近は時には以前よりもおおらかに、起こることにはいいも悪いもなく受け止める、ということが時々できるな~と思うこともあり、こんな時はとても幸せな気持ちにない物事が不思議とうまく運んだりします。半面ある時になると、一つのことをきっかけにこんなにため込まれていたのかと、唖然とするくらい破壊的な怒りや絶望感に突き落とされます。よく怒りはため込まないこと、ちゃんと怒ること、吐き出すこと、と言われてきました。自分の肩こりや片頭痛も怒りが大きく関係していると思っています。期待を変えるということはできるのでしょうか?期待の裏には成育歴を背景にした根強い不安がないでしょうか?「期待」を変えること、よく考えてみます。
ありがとうございました。
八雲さま
それからもう少し踏み込んで、例えば「いじめ」という状況に対しての怒りはどうでしょうか。「正しい怒り」というのがあると私はおもっているのですが。もっと分かりやすく言うと、虐待、とか迫害、とか。日本には迫害やテロなど馴染みはないので実感がわかないと思いますが、虐待やブラック企業の悪質なやり方など、苦しむ人は周りに多いと思うんです。正vs悪の図式になってしまうのですが、虐げられたときの人の感情に対して癒す道はあるのでしょうか。
> hiromiさん
不安というのは、期待が実現しないと思った時に起きることです。
うまく行かないのではないかという不安は、うまく行くという期待から現れます。
何の期待もなければ、不安は現れません。
期待することを完全に辞めろということではありません。
期待というのは生きるための道具です。
その道具をうまく使うことが大切なのに、道具から出て来る不安で振り回されているひとを良く見かけます。
道具なのですから、期待の内容を変えるか、期待することを止める。という選択をすることが非常に大切です。
> hiromiさん
「正しい怒り」は個人の中に存在しているだけで、他の人から見れば正しいとは思えないことがよくあります。
これは、家族間のいさかいを見れば、簡単に見つけることができます。
いさかいは、お互いの主張が異なることが原因で起きるのですが、どちらも自分の主張が正しいと思っているので、全く異なる二つの「正しい怒り」が存在していることになります。
虐待、迫害、テロ、ブラック企業のいずれも、当事者は正しいことをやっているという思い込みがあります。ところが、それを第三者から見れば、正しくないことが明白だったりします。
正vs悪の図式で考えると、自分の方が正しいという思い込みによって、相手が何を考えているのかわからなくなります。
感情を癒す道は沢山あるのですが、一番難しいのは虐げられた人が自分の考え方を変えない時です。考えを変えた時に、癒しは起きます。
例えば、虐げられた人が、原因が自分にあると思っている人のケースで、実は自分には原因がなく、自分が居る組織であったり、人間関係であったりした場合、それを理解してそこから離れることが癒しに繋がります。そして、近親者の変わらぬ愛情があり、それを受け止めた時、癒しが起きます。
ありがとうございます!
ほんとうに難しいところですね。。
でも、それぞれの立場の人は自分の信じる正しいことをしている、という風に考えると、すこし理解できやすくなりそうです。
それぞれの正しさがある、もしかしてそれを突き詰めると、
「起きてくる物事に良い悪いはない」とよく八雲さんが言われることにつながって来るのかなと
ふと浮かびました。
このテーマはとても深い大事なところに感じて、まだ消化できないけれどまた考えて行きたいです。
あと
虐げられた人の感情の癒しについてですが、
ここがどうしてもわからないところです。
自分の方にではなく、組織や周囲に原因がある、と考えを変えるということは、正VS悪のパターンにならないでしょうか?
(私の読み方が間違っているのでしょうか)
逆に周囲や相手に傷つけられたと感じているひとは、その考えから離れて、傷つけた相手もそれぞれの正しい信念で行っていると考えることで、癒されるのでしょうか?
すみません、また質問になってしまいましたが、、、
丁寧なご返答ありがとうございます!
なかなか難しいですね。。でも、それぞれの立場の人は自分の信じる正しいことをしている、という風に考えると、すこし理解しやすくなりそうです。
それぞれの正しさがある、もしかしてそれを突き詰めると、「起きてくる物事に良い悪いはない」とよく八雲さんが言われることにつながって来るのかなとふと浮かびました。このテーマはとても深い大事なところに感じて、まだ消化できないけれどまた考えて行きたいです。
あと虐げられた人の感情の癒しについてですが、ここがどうしてもわからないところです。自分の方にではなく、組織や周囲に原因がある、と考えを変えるということは、正VS悪のパターンにならないでしょうか?
(私の読み方が間違っているのでしょうか)
逆に周囲や相手に傷つけられたと感じているひとは、その考えから離れて、傷つけた相手もそれぞれの正しい信念で行っていると考えることで、癒されるのでしょうか?
すみません、また質問になってしまいましたが、、、
> hiromi さん
虐げられた人の感情の癒しは、本人が根本的な考え方を変えるかどうかが鍵になります。
根本的な考え方を変えないで、新しい考え方を上塗りすることが良くあります。
例えば「世界は敵だらけだ」という根本的な考え方を持っていると、世界が敵として行動を始めてくれます。それを避けるために、無理やり「世界は平和だ」と考えてみても、根本的な考え方が変わらなければ、世界は敵のままです。
虐げられた過去を、考え方を変えずにそのまま見続ける人は癒されません。
自分の過去を、未来に向かって行く原動力にするという考え方に根本的に切り替えると、癒しは自動的に起きます。
考え方を根本的に切り替える時、自分以外の人からのサポートが役に立つことが良くあります。
スピリチュアル・カウンセリングで癒しが起きるのは、カウンセリングによってその人が考え方を根本的に切り替えた時です。