全てが一つであるという世界を一度垣間見るだけで終わってしまうのではなく、自分のなかで安定的に経験できるようにすることはとても重要であり、そのためには、実践が必要です。実践なくして、真の悟りになることはありません。
しかし、悟りは、多くの誤解と理解不足があります。
悟るという言葉は、スピリチュアルではない意味で使われることが多く、「理解」「感づく」「察知」などでも使われることがありますが、ここで言う悟りはあくまでも分離体験の中での知識的理解であり、スピリチュアルな深い理解である、全ては一つであるという悟りとは全く別ものです。
全てが一つであるということを体験するとき、そこには「私」という概念はなくなります。なので、誰かが「私は悟った!」と言ったのであれば、その体験は分離の中での気づきでしかないということです。
禅の世界では、悟りを小悟・中悟・大悟と三つに区分しており、有名な白隠和尚でも、「大悟十八回、小悟数知れず」と言っているくらいで、一度悟ったぐらいでは、まだまだなのです。
全てが一つであるという真理を一瞥する経験をしたのなら、その経験を深めていくことが必要です。しかし、経験は毎回異なる形態になるため、過去に経験したことと同じことを追求すると経験できなくなってしまいます。
大切なのは、求めるでもなく、志向するでもなく、「ただ在る」という、「いまここ」の状態であり続けることです。
そして、それを深めていくためには、ある時期集中的に実践を行うことも必要です。
【記事リスト】
ワンネスを"知っている"と"体験する"の間には、深い谷がある(1)
https://en-light.net/archives/4024
ワンネスを"知っている"と"体験する"の間には、深い谷がある(2)
https://en-light.net/archives/4026
ワンネスを"知っている"と"体験する"の間には、深い谷がある(3)
https://en-light.net/archives/4028
コメント
日にちを記録しておけばよかったのですが、一昨年あたり、2度、地下街の雑踏で(2回とも同じような状況)、ワンネスを体験しました。
初めての体験というよりは、「思い出した」ような感覚でした。
若い頃は、何とか得られないものかと、ヨガ、瞑想、古神道の行もどきなどしてみましたが、その経験は得られず。。。
一昨年、覚醒体験をどうしてしたのか、きっと必要なステップだったのだろうと感じるだけで、普段は、小悟と中悟を行ったり来たりしているのだと思います。
ここ2〜3年、特に八雲さんにお世話になるようになり、「なんでもあり」という感覚が強く、セッションでもご指摘いただいたように、しばらく、全てが、生きているのも面倒な感がありましたが、春頃から、少し活動できるようになりました。
瞑想も、ほんの数分、整えるのみで、何年もしていなかったのですが、また、トライしてみたいと感じてきたところ、瞑想会にお誘いいただき、参加いたしました。
前置きが長くなりましたが。。。
静かに「瞑想」することも大事ですが、普段、生活の中で、如何に「今、ここ」に軌道修正しながら過ごすかが大切だと感じています。なかなか難しいですね。
八雲さんが「ある時期集中的に実践を行うことも必要です。」とおっしゃるのは、具体的には、どのようなことでしょうか?
とても興味があります。
コメント欄でおこたえいただくようなことではないかもしれませんが。。。
> LOLL さん
> 八雲さんが「ある時期集中的に実践を行うことも必要です。」とおっしゃるのは、具体的には、どのようなことでしょうか?
今回7月と9月の修行期間がまさにそれで、他の事柄を一時的に休止して、実践的なことを集中して行うということが必要なことがあります。
それを知るには、自分自身の深い部分の声なき声を聴くことです。
お返事のコメントをありがとうございます!
少し先になりますが、来年3月に3週間ほど、旅行に行く計画をたて、
先月末に飛行機のチケットを予約しました。
ヴァカンス=リゾート地でのリトリートは?と迷いましたが、
ある目的のために旅に出ることを優先させた方がよいと感じ、
期間中は、往復の日にち以外は、あまり計画を立てず、
内側からの声に耳を傾けようと思います。