ブッダの教えの二元性と一元性

ブッダの教えというと、「四諦」、「八正道」、「中道」などが良く知られているのですが、これらは人が二元性に居る時の教えであり、覚り(さとり)が起きる前に理解し守る事柄であり、これらのみを守っていればおのずと覚るわけではありません。

一元性という覚りのために、根本的に深く理解しなければならないのは、「諸行無常」、「諸法無我」、「涅槃寂静」の三つの教えと、「縁起」になります。これらの理解が抜けてしまうと、二元性の中にとどまってしまいます。

「諸行無常」は、平家物語の冒頭に、
『祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり』
と出てきますし、教科書で見た人も多いので、概ねの意味は理解されていると思います。

「諸行無常」の諸行とは、二元性から見たこの世における一切の現象のことであり、無常とは、この世における一切の現象は“常”すなわち永遠ではなく、移り変わっていくものであるということです。

「縁起」は、諸行という現象は、無関係に起きているのではなく、お互いに関係しあって起きているのであり、他から独立した存在はないということです。こちらは、一元性を理解する上での基礎になります。

「諸法無我」の諸法とは、この世に存在する一切のものであり、形があるものも、形が無いものも含めた全てのことであり、無我の我は初期の経典では、“私”と解釈する方が分りやすく、この世界には、“私”という実体は存在しないということです。
諸行無常で語っている、現象に存在しているように見える身体としての“私”も、形が無い精神や思考としての“私”も、どちらも実体がないという意味になります。こちらが一元性の根本的な教えになります。

「涅槃寂静」は、一元性という覚りを得た境地を現しています。諸行無常・諸法無我の事実を深く理解した時が「涅槃」であり、その時は、静かな安らぎの世界「寂静」であることを現しています。

こうやって見て行くと、ブッダの教えは、我々が真実だと思い込んでいる二元性(物質は存在する、私は存在する、他人は存在する)が諸行無常であるから始まって、お互いは関係しあっているという縁起になり、真理である一元性の全ては一つであり、独立した私はいない諸法無我を経て涅槃寂静に到達するという形を持っていることが分ります。

二元性のこの世を理解することから始まって、やがて真理の一元への道筋を教えるというあたり、さすがに上手く出来ていると思います。

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