神はどこにいるのか

神が神社にいるわけではありません。
神はあらゆるもの全てです。
神はあまねく遍在(1)しているのです。

あまねく遍在しているのが本来の姿なのですが、人の意識と交流するために人的な現れをします。もちろん肉体は持っていないのですが、いわゆる霊魂的な一つのエネルギー体としての現れをすることで、人の意識と交流します。

そのエネルギー体としての神と交流しやすいように創られた場所が神社です。ですから、神社に行くと神を感じやすくなるのです。

神社において、人的な現れをする時は分離的な現れになるので、現れ方によって個性を持ちます。スサノオやアマテラス、あるいは教会に行けばイエスやマリア、お寺に行けば、観音や不動明王など、それぞれの個性を持った人的な現れとして出てきます。それが様々な神としての現れなのです。

ですから、神社の御神体やお寺の仏像は、神仏そのものではありません。それは言わば神と人との通信装置なのです。社寺はその通信装置を置いてある場所なのです。

神道では、「人は神である」と言っていますが、全くもってその通りです。これを読んでいるあなたも神なのです。神が人として現れているだけなのです。

あなたも神なのですから、スサノオやアマテラスなどの神々とお話しすることが出来ないはずはありません。神としての現れと、人としての現れとしてのあなたは、存在としては対等なのです。神と人では役割が違うだけです。

例えていえば社長と社員みたいなものです。社長も社員の違いというのは、この人生における役割が違うというだけです。例えば、同級生の二人が会社に入って、片方は社長になったが、もう一人は社員のままであるとします。この二人が会社という場所を離れたら、まったく対等な二人になるわけです。単純に人として見れば、社長も社員も対等な存在ですから、普通に話しができるのです。

ですから、神と人がお互いにお話しできるのは自然なことです。

神社に行ったら、神に話しかけてみてください。そのとき、自分の期待通りに何かが返ってくるわけではありません。神は人とお話しする時は、五感と第六感つまりインスピレーションのどれかを使ってお話しします。お話しとして言葉が返ってくることの方がむしろ少ないのです。


(1)遍在(へんざい)
広く行きわたって存在すること。あまねく存在すること。どこにでも存在すること。 「神は世界に-するという説」 〔同音語の「偏在」は偏って存在することであるが,それに対して「遍在」はどこにでも存在することをいう〕
三省堂 大辞林
http://www.weblio.jp/content/遍在

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